刃の師弟
今日も、師匠の剣は容赦がなかった。
「おっと!」
一瞬でも反応が遅れれば頭蓋が割れる上段からの打ち込みを、少年は半歩ずらして回避する。僅かな隙を突き反撃しようと真剣を振り抜くが、それより速く跳ね上がった追撃に慌てて剣先を合わせる。
――ぐぉん。と鋼と木が打ち鳴らされる独特の音が両者の間に底篭る。
「……ふっ」
弾ける音を検分するかのような間を置いて、師の木剣が喉元を抉る。一度の停滞を逆用するような急撃に、少年は瞬時の判断を迫られる。
体勢を崩すのを覚悟で飛び退くか、あるいは剣で弾いて凌ぐか。
「――つぁ!」
彼が選んだのは、回避でも防御でもなく、反撃。身体を捻り込んで突きの軌道から逃れつつ、自身も師に向けて刺突を返す。
今までの自分ならこの辺りで主導権を奪われて押しまくられる局面だが、いつまでもやられっぱなしではいられない。
入った――。
確信した直後、しかし少年の身体は真横に吹き飛ばされた。
「ぐぁ!」
首に叩き付けられた鈍痛に呻く間にも、衝撃が突き抜けた身体に鞭打って飛び上がる。少年が師事しているのは、弟子が地に伏せていたら追撃を容赦してくれるような「常識的」な教育者ではないのだ。
「あれ?」
と、剣を構えて向き直った少年は、ひどく意外なものを見た。
「……」
突き出した剣を横に振り抜いた姿勢のまま、師が、動きを止めていた。
なるほど、今のは突きを瞬時に横薙ぎに斬り替えて自分の首に叩き込んだのか、と実戦なら頭が吹き飛ばされていた事実を確認し、次に活かすと脳裏に刻む。
その時。
「……成ったか」
「え?」
微かに聞こえた呟きに、少年はきょとんと眼を丸くする。内容よりも、修業の途中で師が話をすること自体が今まで一度も無かったことで、そちらの驚きの方が上回っていた。
「見ろ」
「え、はい」
戸惑う弟子をよそに、構えを解いた師が軽く首を傾ける。
慌てて目を凝らした少年は、しばし見慣れた剣の師の姿を眺めていたが、ほどなく「それ」に気付き、幼さの残る面を驚愕の色で染め上げた。
「あ」
師の首、老いてなお極限まで鍛え抜かれた肉体に――微かに、しかし確かに一筋の血が流れていた。
「……当たってたんだ」
「ああ」
つい今しがたの少年の一撃。あえなく吹き飛ばされたかと思われた刃は、剣の切っ先、そのさらに先端を掠らせ、師の身体に斬撃を刻んでいたのだ。
無論、これが実戦であったなら、あのような怪我とも呼べぬ僅かな傷と引き換えに少年の首は胴から転がり落ちていたのは間違いない。
そういう意味では、未だに両者の実力差は歴然だ。
「お前が我を斬ったのは、最初に遭った日以来だな」
だが、弟子の一撃を師は認めた。否、少年を鍛えると決めた日から、「今日」が来ることは分かっていたのだろう。
「……それ、おれは覚えてないけど」
少年は困ったように笑う。修業の最中に気を抜いているわけではない証拠に、立ち姿にはいかなる揺らぎも見られない。
数年に渡る修行の中で、少年が師に剣を届かせることが出来たのは、今が初めてのことだった。
師は木剣、弟子は真剣。それぞれ剣を手に毎日朝から日暮れまでただひたすらに二人は打ち合ってきた。いくつになるかもわからないほど剣を使い潰し刃の交錯を重ねた中で、しかし師が身体に傷を負うことはなかった――ただの一度も。
師匠と弟子の力の差は明らかで、武器の違いも、最低限それだけの差を付けなければ鍛錬にすらならないというだけのことだった。
いかに容赦がなくとも、今までの剣戟はあくまでも「稽古」の域を出ないものであった。
「だけど」
今日この時、少年の剣は師と「戦う」ことの出来る段階に到達し、彼を斬れる可能性を持つ――『刃』になったのだ。
少年の身体が恐れを知ったかのように僅かに震える。あるいは、高揚か。
師は、静かに弟子を見ている。いかなる感情も揺れていない、凪いだ瞳。
「我が弟子よ」
「――うん、師匠」
そして師弟は、僅かなやり取りで互いの意思を了解した。
人の通わぬ辺境の奥地で、ただひたすらに少年を鍛え抜いた修業の日々が――今日、終わる。
「これが、お前に見せる最後の剣だ」
「……」
言葉と共に、師の全身に気迫が横溢し深い息吹に大気がざわめく。それは少年が今まで一度として目にした事の無い、剣士の全霊。
「構えよ」
「はい!」
師弟が交わす最後の一合。これを乗り越えることが出来るかが、彼らの修業の最終試験だ。
両者数拍、二人で剣を交わした日々を惜しむかのような僅かな間を置いて――。
『――!』
しかし、直後にすべてを振り切り跳び出して、二つの剣がぶつかり合った。
衝突の結果は、彼らの他に知る者もなく。
これよりおよそ一年後、遠く離れたある都市にて――炎と鋼の物語が始まる。