(4)
この世界に味方なんているはずがなかった。人間の世界ではないここに両親も親友もいるはずがないのだ。
あの優しい湊も何故かいないという。
世界で一人──。
玄関へ向かって靴を履こうと屈むと、自分の靴に水滴が落ちた。千代は自分が泣いていることに気付くと、せきをきったかのように涙が出てきて、その場にうずくまって、一歩も動けなかった。早く出ていかなければ、と思っても足が吸い付いたように動かなかった。
様子がおかしいと黒嶋が近寄ってくる気配がするが、それでも一歩も動けなかった。
「…泣いているのか?」
とても恐る恐る聞いてくる。千代は首を横に振ったが、黒嶋は騙されなかった。
「どうした!?故障か!?」
手にしていた携帯を引ったくられ、それに驚いて千代は黒嶋を見た。乱暴に涙をぬぐって、立ち上がった。不思議ともう体は動かすことが出来た。顔を黒嶋に凝視され、そんなに酷い顔だろうかと一歩、後ずさろうとすると腕を強く掴まれた。
そして何かを確かめるように…
「君は…人間だね?」
真剣な眼差しが、千代の濡れた視線とぶつかった。千代は、しっかりと頷いた。
そして溜め息が聞こえた。
「俺はなんで早く気づかなかったんだ…」
黒嶋は千代の腕から自分の手を離した。黒嶋の表情は無表情だったが、目は驚きと悲しさをうつしていた。
「帰れと急かして悪かった。君には帰る家もここにはないんだろう?」その言葉に千代は反応した。
「君には俺達のことは分からないだろうが…俺達はよく知っている。俺達は君達の役に立つためだけに生きているのだから。」
その言葉で、千代の仮説は真実となった。
そう、きっと目の前にいるこの人も、湊くんも
「あなた達は“携帯”なんですね…」
黒嶋が静かに頷くのが見えた。何故だろう、そこまで驚かなかった。
「…上がりなさい。俺が知る限りのことを教えよう。」
千代は促されるまま、再びリビングへと向かった。しばらくすると、手にカップを持った黒嶋が現れた。中身はコーヒーのようだ。今はその苦い香りが千代の気持ちを落ち着かせた。
「ありがとうございます…」千代は目の前に腰かける黒嶋の顔を盗み見た。先程までは気が動転して、よく見てはいなかったが、歳は25歳くらいだろうか、黒嶋も湊に劣らないほど端正な顔立ちをしていた。目つきは鋭く、きつい印象を与えるが、その全てを見透かすような目を見ていると、何故か安心する。
「及川千代…と言ったな。」
いきなりこっちを見て言葉を発したので、思わずカップを取り落としそうになった。
「は、はい。」
「俺はさっきも言ったように、ここの近くにある携帯養成学校の教師をしている。…この世界の住人は君の目には異質にうつるだろうが、ここではそれが普通なことだ。…誤解しないで欲しいが、俺達にも感情はある。」
どうやら自分の無表情を自覚しているらしく、千代は苦笑した。
「わかります。目を見れば感情があるなんてことは…」
湊は笑っていた。
それがなによりも全てを物語っていた。
「…そうか。」
黒嶋の空気が和らぐ。そして、黒嶋は続けた。
「ああ。人間と変わらない。恋をすることも、憎むこともある。」
人と変わらない形で彼らは彼らの世界で生きている。
そのことを人間は知らなかった。これからも知ることがあるかなんてこともわからない。
「基本は、髪色がその本体の自身の色と思ってもらっていい。」
黒嶋はポケットから大きい画面のスマートフォンを取り出して、机の上に置いた。黒嶋の漆黒な髪と同じ、光沢のある黒い携帯だった。
「普通ならば己の色に誇りを持つはずなんだ。」
例外はいるが、と付け足した。千代は湊の染められた髪を思い出す。茶色に染まった桃色の髪を…。
「なんで黒嶋先生は私が携帯ではないと気づいたのですか?」
黒嶋は千代の目尻に残っている涙を指で掬うようにぬぐった。
「俺達は喜怒哀楽はあるが、泣かないんだ。いや、泣けないの方が正しいけどな。」
後半の台詞に自嘲した。
「排泄はある。だが人間のように…君のように泣くことはない。」
不思議な話だった。
「ただ廃棄されるときだけ涙が出る。だから俺たちにとって涙は終わりであり、“死”だ。」
だからあんなに動揺していたのかと一人合点がいった。ふっと黒嶋が微笑んだ。無表情だった顔にしわが刻まれる。胸の内側に安心という言葉が染み渡る。
「さて…どうするかな。」
しかし、次の瞬間、表情がまた無に変わる。先程の笑顔が幻かと思うような激変ぶりだった。
千代は黒嶋がスーツ姿であることに、はっと我に返って考えあぐねる黒嶋に言った。
「あ、通勤の時間ですよね。すみません帰ります。」
帰ります、はとっさに出た言葉だった。それに黒嶋が溜め息を一つ吐いた。
「帰るって何処に帰るつもりだ。この世界だって犯罪が無いわけではないし、警察もいる。ましてやその姿で平日にうろついてみろ…補導される。」
どうやらこっちの世界の人は、思いのほかあっちの世界のことにとことん詳しいようだ。
「当たり前だ。インプットされている。」
どうやら心も読めるらしい。
千代は驚いて黒嶋の顔を凝視していると、無表情が呆れに変わる。
「君の顔を見てれば分かる。心が読めるとか思っているだろうが、そんな機能はない。」
口が勝手にすみませんと動いていた。
「…俺が考えていたのは、君をどうやって編入させるかだ。」
「…編入?」
聞き返すと当然とでも言うように、すぐ返事が返ってきた。
「ああ。学業に励むことこそ学生の本分だ。君もずっと何もせずにここにいるのは退屈だろう?だから帰れるまで、こっちの学校に行きなさい。まぁ、わからない教科もあるだろうが、基本は同じだから…」
今、聞き逃してはならないところがあった気がする。
「…私が、ここに居てもいいんですか?」
「他に何処に。」
黒嶋がいい人なのはわかる。だが、なぜここまでしてくれるのかがわからない。学校だってタダではないはずで、食費だってかさばる。
相手は普通に言っているのだろうが、無表情で言われると妙に威圧感がある。口がまた勝手にすみませんと動いていた。
「謝ってばかりだな君は。」
「すみ…ません。」
「まぁ、俺も男の一人暮らしだが、子どもには興味はない。部屋はさっきの部屋を使っていい。」
子どもと断言され、ショックなのかなんなのか…。
不意に、制服からパジャマになっていたことを思い出した。一人暮らしということは無論、着替えさせたのは彼だろう。千代は、もう恥ずかしさと申し訳なさで黒嶋を直視できなかった。
「………来るか?」
「はい!?」
動揺して声が裏返る。黒嶋は一瞬目を丸くして千代を見つめていた。
「いや、学校に。」
見学を勧めたのだと気づいたときには、もう黒嶋はすでに背広に袖を通し、鞄を持っていた。
「い、いきます!」
千代は、一緒にこの世界に来たスクール鞄を手にとって、黒嶋の後を追いかけたのだった。
◇◇◇◇◇◇
千代は外に足を踏み出した瞬間、驚いた。黒嶋に“君の目には異質にうつるだろうが、それが普通のこと”と言われていたが、それでも驚かずにはいられない。
「どうした?早く車に乗りなさい。」
「は、はい…」
道行く人が、皆カラフルなのだ。車に乗って動き出しても、うつりゆく景色と人は、新鮮に千代の目にうつった。赤や青、緑や色が二色ある髪色……むしろ黒嶋のような黒髪がめずらしい。
「すごい…」
思わず呟きがもれる。
「…俺でもたまに驚く色がある。今はもういろんな色がある。」
目を細める黒嶋の横顔を見ると、また思い出してしまって目をふせた。
気まずい沈黙が何分か続くと、それを破るように車が止まった。
「ここで降りてこの道を真っ直ぐ行けば、これから行く携帯学園に着く。俺も車を停めたら行くから校門で待っていなさい。」
言われた通りに車から降りると、目の前には桜が両脇で誇らしく咲く一本の道が続いていた。その道を、同じ制服を着た色とりどりの髪色の男女が一つの方向へと向かっていく。チャイムが鳴るのか、心なしか皆道を急いでいるように見える。
一人違う制服の千代は、道行く生徒に見られた。
あまり人に見られたくなかったので、千代は流れに逆らって遅めに歩いた。悠長に歩いている生徒は千代しかいないように思えた。
どれくらい歩いただろうか。桜街道も終わりが近付いてきた。大きなアーチ状のレンガ造りの校門、慧泰学園とかいてあった。
急いで校門を駆け抜けていく生徒の中、自分と同じく、ゆっくりと歩く人影があった。走る生徒はその二人を避けて行く。
一人は金髪、一人はオレンジっぽい色の髪に、微かに緑のメッシュが見えた。
後ろから見ても不良であると認知できる。そこらへんはどこも同じなのだなと親近感がわいて、ひとりでに笑う。
千代も避けようと脇に寄ったとき、強い風が吹いた。桜が踊るように降ってくる。自分の黒い髪が風になびいていくのを辿れば、金髪の隙間から、桜と見紛う程の鮮やかな桃色が目の前に姿を現したのだ。
それを見て、千代の中には一人の人物がはっきりと脳内に浮かぶ。気付けば走り出していた。
懇願をするかのように、濃紺の制服の端を掴む。
自分の好きな人────
男は振り返った。髪色は違えど、顔は変わらず端正で、綺麗で……そう、同じだった。瞳に映る冷たさを除いては──。
「湊先輩…!」
体が震える。昨日の優しかった面影は跡形もなく、何故か自分は恐怖で身が固まっていた。好きな人を目の前にしているのに、胸の中で響くのは甘いものではなく、本能が逃げろと忠告する警報だった。
それは“湊くん”の隣に居る男からも、千代に向けて発せられていた。
「黙れ光樹。」
目の前の“湊くん”は真っ直ぐに千代を見据えていた。
その表情が凄艶な微笑みへと変わる。
「湊…くん?」
目の前の湊は静かに千代へと手を伸ばした。その手が触れるか触れないかのところで手が止まる。
「千代!」
こっちに来てから聞き慣れた声。だが千代は“湊くん”から目が離せなかった。まるで吸い込まれるように互いに視線は交差したままだった。
黒嶋が間に割って入る。手は自然と制服から離れた。
黒嶋の凛とした声が響いた。
「桃野、金木。予鈴が鳴る。早く校舎に入りなさい。」
黒嶋の台詞に“湊くん”は千代から視線を外した。“湊くん”の口には先程とは違う種の笑みが浮かび、その口が開いた。
「黒嶋センセーも自分の女くらいちゃんと躾して下さいね………じゃ、またねチヨちゃん」
口端だけで笑って手を振る“湊くん”をただ茫然と見送ることしかできなかった。
その場にぺたんと座り込んでしまった。
誰かに否定してほしい。
“湊くん”の隣にいた男は彼を『湊先輩』と呼んだ。黒嶋は『桃野』と呼んだ。
「湊くん…?」
否定してほしかった。
何故、あんなに変わってしまったのか。
「全く何をしているんだ君は。」
黒嶋が千代に手を出して立たせる。
そう、夢ではこう言われたのだ。色とりどりな髪色を持つ彼らは携帯になるために学校へ通うのだと───
次回はもっと若い子が出せられるように頑張ります(笑)