(3)
千代は何かを落とす大きな音で目を覚ました。
目の前に映る見知らぬ景色と、香る知らない匂いで、完璧に覚醒した。千代は、脳内で状況を把握したと同時にがばっと体を起こした。
「湊くん!」
叫んでも、反応するものはない。とりあえず自分の周りを見渡すと、自分はベッドに寝ていて、部屋は黒を基調としていた。びっくりしながら足を床におろして歩こうとすると、何かが足に引っかかり、びたんっと転んだ。額と、昨日怪我をした膝の傷を床に打ち、更に痛みが増した。何につっかえたんだと足元を見れば、見知らぬ……パジャマ…?をきている。柔軟剤のいい香りはするが、ブカブカでだるんだるんである。サッと青ざめた。怪我をしたところを見れば、応急処置のハンカチではなく、しっかりと手当てがしてあった。
千代は必死に記憶を探った。最後に助けを求めたの誰だったか。
男の人だった。
そう結論付いたのはすぐのことだった。まず、パジャマが男物だ。更に青ざめた千代は、制服がどうなってパジャマになっているのか…。考えれば答えは直ぐに出てしまうのだが。
このパジャマの持ち主は、どうやらとてつもなく足が長いようで、余った裾に、千代は何度も転びそうになった。足元に気を付けながら、部屋の扉へと向かった。
おそるおそるガチャリとドアを開ければ、目の前にはダイニングテーブルとキッチン、そして鍋を拾う男の姿があった。男はドアの開く音に気づき、こっちを見た。
「…すまん。起こしたか」
「…い、いえ…」
男は昨日の記憶に残っている。黒髪に、きつめな印象を受ける目。間違いない、最後に会った人である。
「あの…私…」
「気がついたのなら早く帰ることだな。親御さんも心配していることだろう。」
何故、警察へ私を突き出さなかったのだろうと疑問に思った。男は鍋をキッチンの上に置いて、何処かに消える。男はスーツ姿だった。これから出勤なのだろう。考え事に耽っていると、いきなり男が目の前に現れて、制服を手渡される。驚いて見返すと、携帯とハンカチも手渡された。ハンカチはきっと湊のものだろう。血は綺麗に洗われて、跡形もない。しかし、昨日は暗がりでよく分からなかったが、よく見ると家にある千代の持っているハンカチによく似ていた。
「一応だがアドレス帳に入っていた親御さんらしき人に連絡をとろうとしたのだが通じなくてな…。」
アドレス帳には『お父さん』『お母さん』と登録してある。……通じない?
「家出でもしたのか?」
千代はふるふると首を横に振った。今はそれよりも気になることがあった。
「あのっ湊くんは!?川で血を流してて……っ」
「ミナト…?」
男の目つきが更に険しくなる。
「桃野湊のことか?」
知っていることに驚いた。頷いてから千代は早口に言った。
「茶髪で顔にピンクの絆創膏が貼ってあってそれで…」
「落ち着きなさい。」
男の声が遮った。先程とは違う、少し優しい目で千代に言った。
「川でそういう乱闘はなかった。落ち着きなさい。」
千代は男の顔を凝視した。
「嘘ですっ!だって…あんなに血を…。なんでなかったって…」
今にも出て確認しに行きそうな少女の腕をつかんだ。
「何故って、そういうことが起きたらまずインフォメーションが来るだろう?」
「…インフォメーション?」
「…君、本当に高校生か?」
千代にだって意味は分かる。“情報”や“お知らせ”、“案内”という意味だ。
・・
「機能に関わる何かがあったら受けとることができる。その習得は中学校でやっただろう?」
何を言っているのか全く分からなかった。とりあえず、携帯を開くと、真ん中の決定ボタンが壊れていた。
「…何で?」
・
「君も自分の色が嫌いなのか?」
「え?」
「私の知り合いにもいる。君も桃色か…わざわざ黒に染めずとも…」
「…?地毛です…けど…」
「失礼。」
わしっと髪の毛を掴まれた。乱暴な動作ではなく、何かを確かめるような、そんな感じだった。地毛だと確認をすると、そっと頭から手を離された。
「…では何故?君は桃色ではないのか?いや、でも…」
男は一人で何やらブツブツつぶやいていた。
「確かに君はセンターキーを破損しているのに、その部位は怪我をしていない…。逆に怪我をしている膝の部位には傷がない…何故だ?」
千代の携帯を取り上げ、しげしげと見入る。
千代はというと、呆気にとられていた。状況が理解できないのだ。ぽかんと男を見つめ返すことしかできない。
しかし、千代は我に返って質問をした。
「あなたは、湊くんを知っているんですか?」
男の視線が千代の携帯から千代本人へとうつる。男は表情を変えずに言った。
「君の言っているミナトとは違う。慧泰学園の生徒だ。それより君はどこの高校だ?制服も見たことがない…名前は?」
「及川千代…です。」
高校の名前も言ったが、男は憮然とした表情のままだ。
「オイカワ…変わった名字だな。しかも高校も初めて聞く名前だ…。」
そういえば、湊が異世界だと言っていた。知らないのはもっともかもしれない。しかし、何かが引っ掛かるような顔を男はしている。
(…でも、そんなに珍しい名字かな)
そう言う前に、相手は応えた。
「私は、黒嶋輝基という。慧泰学園で教師をしている者だ。」
教師という言葉に、黒嶋と名乗る男を凝視する。その視線を受け止めて、黒嶋は次の言葉を続けた。
「まぁ、自己紹介をしても、もう会わないだろうが…。引き留めてしまってすまないな。早く着替えて学校に行きなさい。」
黒嶋は、踵を返して、またキッチンへと戻る。とりあえず千代は部屋に入って着替えることにした。千代はボタンを一つ一つ外して、また留めながら、黒嶋の言っていた言葉を反芻した。そして昨日の湊の話も。
頭の中で、一つの仮説が組み立てられる。それは信じがたいことだった。しかし、現実にこうなっているということは、仮説が正しいと認めざるを得ない。ブレザーのボタンも留め終わり、部屋を出た。
「あの…黒嶋……先生」
千代の考えに考えた呼びかけに、黒嶋は振り返った。
「昨日は、ありがとうございました。」
お辞儀をした。黒嶋は目を細めて笑顔を向けた。初めて、笑顔を見た。表情筋がないものだと思っていた千代は、多少面食らった。
「早く帰って親御さんを安心させてあげなさい。」
その言葉にもう一度お辞儀をした。帰る家がない、なんて言えるはずがなかった。もう迷惑をかけまいと、無言で去ることを選んだ。
この世界に、千代の味方はいなかった。