(1)
新しいクラスには、何人か昨年に見慣れた顔がちらほらと見えた。千代はそんなに積極的に社交の幅を広げるタイプではなかった。逆に深華は、男女問わず仲が良い。いつも廊下ですれ違う友人とあいさつを交わす。その友人は勿論、千代が知らない人で、深華の社交的な様子がわかる。
自分は深華と一緒にいるのは相応しくないのでは…と思ってしまう。でもそれでさえ見破ってしまう深華は毎回言うのだ。
「千代は私の親友なの!一方的かもしれないけど、私はそう思ってる。」
そう鮮やかに笑って、千代の心をほぐしてくれるのだ。千代は自分には勿体ないくらいの言葉だと思っていた。
深華が同じ学校にいることで、千代の学校生活は充実していた。そして、湊の存在も、千代の学校生活を楽しいものへと変えた。他愛のない内容のメールや電話、見たことのない湊を通学途中でも、学校内でも探そうと目が勝手に動いていくことも、千代にとっては楽しいことだった。
しかし、今、それが終わりを告げようとしていた。
足が石になったかのように動かない。
学校が終わり、帰宅途中だった。深華と他愛のないことを話して、“湊くん”の話もして、普段はあまりしない寄り道に、楽しかったね、なんて笑い合いながら歩いていたのだ。今日は運がいい日だ…と思いながら。
実際は、最悪に運が悪い日だった。駅で、深華と手を振りあって別れ、近道をした。暗く細い路地。目の前には黒い服を着た男が立っている。フードを目深にかぶって、三日月を横にしたかのような笑みを浮かべた男が、右手に鈍く光るナイフを持って立っているのだ。
まるで獲物を見つけた飢えた獣のように。
こんな状況なのに、近道をしようとした自分を後悔したり、近くに植えてある桜が綺麗だから湊くんに教えてあげよう…と思ったりしている自分がひどくおかしく思えた。
そよそよと男と千代の間に花弁が鮮やかに舞った。対峙してからどれくらい時間がたっただろうか…数時間の気もするけれど、ほんの一瞬だったかもしれない。外灯の蛍光灯が、男の顔をチラチラと照らした。無論、目はフードで見えないが、きっとギラギラと光っているのだろう。
動いたのはどちらが先だったか、千代は自分の足を叱咤して駆け出した。男も追ってくる。手に持っていた携帯を開いて、息を切らしながら警察へ電話しようとするが、気も動転して指がうまく動かない。ただ本能が逃げろと訴えてくるのだ。
手から携帯が滑り落ちる。
「あっ──」
拾おうとして、男が視界に入り、千代は再び足を動かした。もう駄目かも、とあきらめかけていた。
大通りまで出れれば…と思っていたが、自分が何処を走っているのかもわからなくなっていた。
川のせせらぎの音が耳に聞こえてきた。桜が…見える。意識を飛ばしていると小石につっかかって千代は転倒した。川に写った月が、せせら笑うように姿を見せていた。
起き上がって半泣きになりながからも傷ついた足を動かして走る。誰か、誰か誰か誰か
「誰か…助けて…湊くん…」
──いっしょに桜を見ましょうよ!
そう返信したのを思い出した。会いたかった。
「千代っ!」
名前を呼ばれたと思った瞬間に腕を掴まれて引っ張られた。いきなり現れた。赤茶けた髪、落ち着く声…そんな人物はこの世界に一人しかいない。
「湊くん…!」
安堵からだろうか。目の前が涙で霞み始める。千代は必死に目元をこすって涙を止めようとしたが、涙は止まらなかった。抱き締められている状況で、千代は、見上げて湊の顔を見た。
「なんで…ここに」
予想以上の端正な顔立ちだった。切れ長の目に、整った鼻梁、風にあおられる赤茶けた髪。
しかし今、その顔は悲しみに歪んでいた。その顔をずっと見つめていると、困ったような微笑に変わって、口が動いた。
「なにかあったら呼べって言ったろ?呼ぶの遅ぇよ。少し、下がってて。」
千代を背後に押しやって、追いついてきたナイフを振りかざす男と対峙した。
・・・
「てめぇはこっちに来なくて良かったんだ」
男は混乱し、動揺していた。
それは、いきなり目の前に現れた湊と、見知らぬ景色に向けられたものだった。
「俺はピンクの次に黒が嫌いなんだよね。嫌なやつ思い出すしっ」
勇敢にも自ら武器を持つ男の方へ駆け出す湊の姿に、千代は茫然と見ていることしか出来なかった。なぜなら、湊が死ぬほど強かったから。
ナイフを振りかざす男をうまくよけて、蹴りを男の鳩尾へといれる。余程痛いのか、男は腹を抑えてうずくまった。湊は、念入りにもう一発蹴りを入れてから、苦笑しながら千代の方に戻ってきた。男はどうやら気絶しているようだ。
「…俺の第一印象、最悪…かな?」
顔立ちや雰囲気とは逆に、あどけない、幼い笑顔を千代に向けた。湊は千代の血だらけの膝を見て、目の前にかがんだ。
「あー…擦りむいてるな。手当てしないと…痛む?」
今まで見上げる側だった千代は不意に見上げられて心が疼いた。男の人に向ける言葉ではないかもしれない…でも可愛いと思ってしまった。ふふっと笑い声が漏れる。千代の笑顔に、湊もまた、微笑んだ。
湊は、着ているパーカーのポケットからハンカチを取り出して、きゅっと膝にハンカチを結んだ。
「とりあえず応急処置ね。自分でもハンカチを持ってるとは思わなかったけど、結果オーライ?」
「ありがとう…」
「それと、これ。落としたでしょ?」
差し出されたのは千代の携帯。落とした衝撃で少し傷がついている。
「ありがとう…わざわざ拾ってくれたの?」
湊はその問いには答えずに、困ったように笑った。
そんな顔を不思議に思って見つめると、湊の顔にかすり傷を発見した。
「…!顔に傷が…!!」
「ん?いやこんくらい舐めときゃ治るし…」
ポケットに、深華から貰った絆創膏が一枚だけあることを思い出し、取り出した。
「私の怪我は、広範囲すぎて使えないから…。ピンクで申し訳ないんだけど…」
湊は受け取ろうとしなかった。確かに嫌いな色を顔に貼りたくはないかと思ったとき
「千代が貼って?」
「へ…?」
「見えないし、千代に貼ってほしい」
そう微笑まれ、顔から火が出るくらい真っ赤になっている自覚はあったが、千代は震える手でなんとか湊の右目の下に貼ることができた。そして、湊は嬉しそうに笑む。そして湊はよいしょと立ち上がった。
「んー…どうするかな…。こっちに来ちゃった時点で千代は帰せないし…」
湊は横を向いてうなじをかいて、千代には理解できない言葉をつぶやいた。そんな中、千代はうなじから茶色ではない髪を発見し、注視していた。
最初は、桜の花弁がくっついているのかと思ったが、どうやら桃色の髪の毛のようだ。思わず手を伸ばして触れようとすると、湊はいきなり晴れ晴れとした表情でこっちに顔を向けたので、驚いて手を引っ込めた。
「俺の家に来ればいいんだよ!」
いきなり何を言い出すのかと目を見開いた。
「あ、あの、私帰るんで…」
「俺も帰してやりたいんだけどさ…。ここ、千代が居た世界じゃないんだよね」
バツが悪そうにうつむく湊の言葉に千代は嘘ではないと感じた。辺りを見渡せば、見慣れない川、橋、学校の桜よりも色が濃い桜…。
「ここ…」
湊から送られてきた写メで見た景色だった。きっと目の前に見えるあの橋から撮ったのだろう。自分の知らない世界…。じゃあ湊くんは……?
「俺も驚いてる。」
湊に視線を戻す。
風がそよいでいる。その風は、川の水面のように、千代の心にもさざ波をたてた。
「でも、俺は千代にまた会えて本当に嬉しいんだ。」
夜の月明かりが湊の笑顔を照らす。その笑顔を見て、再び自分の思いを再確認した。
しかし、同時に不安な思いが、心に黒い沁みをつけた。違う世界に互いが住むと言うことは、いつか自分は帰るということだろうか…。
湊が千代の表情で何を考えているか悟った。
「大丈夫。俺たちは常に一緒にいる。」
湊がポケットから千代と同じ携帯を取り出した。それをまたしまって凄艶な笑みを浮かべる。
「じゃ、行くか。詳しいことは家についてから考えよう。黒嶋のところがいいかもしれないけど、そうすると基影がいるかもしんねぇし…」
後半は何を言っているのかは、さっぱりだったが、千代を不安にさせないように湊は笑顔でいてくれた。湊は千代が思っていたよりずっと大人だった。
ふと、さっきの髪の毛のことを思い出して、千代は素朴な疑問をぶつけた。
すると、その疑問をきいた湊は笑いだした。何か変なことを聞いただろうか…?
「髪はピンクが地毛なんだ」
珍しい…何人なのだろう?と考えていると、切れ長の目を細めて優しく微笑む湊と目があった。どぎまぎしてしまう。
「き、嫌いだから染めたの?」
「大正解。でも俺は不器用だから染めきれないところがあるんだよな…。でも最近、俺がピンクであることに感謝してるんだ。」
俺がピンクとはどういうことだろうか。千代は首をかしげた。
「俺が千代に会えたのは、俺がピンクだからだ。」
台詞にビックリして思わず湊の顔を凝視した。
「俺がピンクだから千代は俺を選んでくれた。」
今、何かが繋がりそうになった。しかし、その前に湊のとろけるかのような笑みに、自分の顔が熱くなっていくのがわかる。
その時、急に隣に居た湊がよろめいた。驚いて振り返ると、黒い影が湊の背後にくっついて離れた。
一瞬千代の思考が止まる。
「殺せれば、男でも女でもいいんだ」
歪んで狂った言葉が響いた。男が手にしていたナイフは、目に痛いほどの赤に染まっていた。事実を、自分の脳が否定していた。
「──湊くん!!」
千代の悲鳴は、暗い闇に吸い込まれていったのだった。