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クリスマス、お正月、バレンタインデー……ひとり身の私には寂しい季節が通り過ぎる。
仕事帰りのバスの中、何度途中下車してあのアパートへ向かおうかと考えたことか……このまま何もなかったような顔をして、見慣れたドアをノックして、「お腹へったー」って笑って言えば、史生はきっと温かい料理を私に作ってくれるだろう。
記憶なんてなくてもいい。史生は史生なんだから……
だけど私はそれをしなかった。そんなことをしても、史生を苦しめるだけだから。
春を感じさせるような暖かい夜、ひとりで立ち寄ったあのバーで、マスターがポツリと私に言った。
「この前さ、史生くんが来たよ」
マスターはそう言いながら、私に何が入っているのかよくわからない、自慢の「マスター特製カクテル」を差し出す。
「妙子ちゃんと一緒だった」
私は特製カクテルをひと口飲んで笑った。
「マスター、逢引してる客のこと、そうやってべらべら他の客にしゃべってもいいもんなの?」
「なっちゃんだからしゃべったんだよ。なっちゃんは知っておいたほうがいいと思って」
マスターはそう言ってヒマそうにタバコをふかした。店の中には私以外の客はいない。そんなことはめずらしいことではなかったが……
「史生……元気だった?」
「うん。妙ちゃんと何か話しながら、楽しそうに笑ってたよ」
「そう」
私はカクテルを一気に飲み干す。
「おいおい、もっと味わって飲んでくれよ」
マスターはそう言って笑った。
妙子と史生か……悪くはないな……私はカクテルをおかわりしながら考える。なぜか今夜は穏やかな気持ちだった。私は変わったのだろうか……史生のことを忘れたのだろうか……
それから私は、マスターとどうでもいいような世間話をして、マスターの新しく開発したカクテルの毒見をさせられて、気がついたら明け方近くなっていた。
「またお母さんに怒られるよ」
「しょうがない娘だな」
「マスターのせいだからね」
私は笑って店を出た。
今日も私は酔っていなかった。べろべろに酔って、めちゃくちゃ泣けばかわいいのに……私ってかわいくないな、なんて思いながら、少し明るくなり始めた歩道を歩く。
車道を走る車はまばらで、信号機は点滅を繰り返す。商店街のシャッターは下ろされ、遠くでカラスが鳴いている。
空を見上げると夜の闇がだんだんと消え去り、今この瞬間、街に朝が訪れようとしていた。
私は大きく息を吸い込む。この空の色、空気の匂い……いつか感じたことがある……そうか、あれは初めて史生のアパートで、夜を明かした日のことだ。
前の晩にふたりで飲んで盛り上がって、史生の「うちに泊まってく?」の言葉に軽く「うん」と言った私。
でもなぜかふたりだけであの部屋にいると妙に落ち着かなくて、何度も観たことのある映画のDVDを、ただダラダラと観て過ごして……「この黒人の俳優さんって何かの映画で見たね?」「うーん、何だっけ?」とか、くだらないこと話して……暇つぶしにビールを飲んだらなんだか気分よくなってきて、私は史生にもたれかかって、今思えばかなり照れくさいことを言った。
「このままずーっと一緒にいられたらいいね」
史生は軽く笑って私の髪をなでたが、口から出た言葉はちょっぴり残酷だった。
「でも絶対とは言い切れないな」
私は顔を上げ史生を見る。
「何それ?あんたが浮気するかもってこと?」
「そういうわけじゃないけど。でもお前だってわかんないだろ?いつか心変わりすることがあるかもしれない」
テレビからは映画のエンディングが流れてくる。いつの間にか夜は更けて、春の夜明けがもうすぐそこまで来ていた。
「人生に絶対なんて言葉はないんだよ。人の心は変わるし、これから俺やお前に何が起きるかわかんないだろ?それが運命ってもんなんだよ」
「何よ、偉そうに。史生って意外と冷たいのね」
私はリモコンでテレビを消すと、史生の手を振りきり立ち上がった。
「帰ろうかな」
「え?泊まらないの?」
「もう朝じゃん。目、冴えちゃったから帰るよ」
部屋の外は薄明るかった。私は春の始まりの暖かな空気を思いっきり吸い込み、ゆっくりと歩き出す。やがてドアを閉める音がして、あわてた様子の史生の足音が聞こえてきた。
「怒ってるの?」
史生が私に追いつき顔を覗き込む。少し怒ってやってもいいかな?なんて思ったけど、必死な顔の史生を見たら、私は思わず笑ってしまった。
「怒ってないよ」
「よかった」
史生は安心したように笑って私の手を握る。史生の温かい手のぬくもりが、私の体にじわじわと伝わってくる。
「夜が明けるね」
「うん」
ふたりはそれだけ言って、手をつないで並んで歩いた。
あの日の空の色、空気の匂い、そして史生の手の温かさ。私の視覚も臭覚も触覚も、すべて忘れてはいない。
人間にはどうして記憶というものがあるのだろう。それがあるから私はつらい。だけどそれがあるから、人間は幸せにもなれるのだろう。