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気持ちが悪い……胸がムカムカする……ビールとカクテルとウイスキーをちゃんぽんしたからだろうか……私は吐きそうになるのをこらえながら、足音をひそめて家の階段を昇った。
部屋に入るとバックを投げ捨て、ベッドに倒れこんだ。お酒を飲んですべてを忘れられればいいのに……史生みたいに……
しかし私の頭は冴えていた。泣きたくても泣けなかった。全然かわいくない。それに比べて妙子のあの切ない表情。私が男だったら、思わず抱きしめてあげたくなるようないじらしい瞳。
妙子は史生が好きなんだ。そして史生ももしかして……
その時私は、ふと何かを感じ起き上がった。隣の家の犬がワンワンと吠えている。「うるさいなぁ、あの犬。俺が来るたびにいちいち吠えるんだよなぁ」そう言って苦笑いした史生の顔がなぜか浮かんできた。
「史生?」
私は立ち上がりカーテンの向こうの窓を開く。夜明け間近の薄闇の中に、史生がこっちを見上げてぼんやりと立っていた。
「史生……」
私はそうつぶやいたきり何も言えなかった。史生も私を見つめたまま何も言わなかった。
薄闇の中に立つ史生はどこか透明な感じがする。このまま彼の記憶と一緒に消えてなくなってしまうのではないかと、私はぼうっと考えた。
史生は切ない目でじっと私を見つめていた。そして静かにうつむきゆっくりと振り返ると、何も言わないまま夜明けの道を歩き出した。
史生は私を見て、必死に何かを思い出そうとしていた。でもきっと何も思い出せなかった。
いいんだよ、史生。あんたが悪いわけじゃない。もう無理しないで……私もあんたのことは忘れてあげるから……
私は静かに窓を閉める。人間の涙とはこんなにあふれることができるんだ……いつまでも止まろうとしない涙に、私はあきれたようにかすかに笑った。
「あー頭が痛い。頭痛薬あったっけ?」
次の朝、台所の引き出しの中をごそごそとあさる私に、制服姿のあずさが言う。
「何よ?お姉ちゃん二日酔い?」
私はやっと見つけた頭痛薬を2錠、口の中へ放り込む。
「なっちゃん、あんたまた朝まで飲んでたんでしょう?史生くんと一緒だったの?」
母がエプロンで手を拭き拭き、あきれた顔で私を見た。
「いくら婚約者と一緒だからって、朝帰りはやめなさいよ?嫁入り前の娘が……ご近所の目もあるでしょう?」
「わかったわよ」
私はそう言ってグラスの水を飲み干すと、家族団欒のテーブルに向かって言った。
「そのかわりお母さんたち、史生のことを婚約者とかいうのはやめてよね」
母が驚いた表情で私を見る。あずさは牛乳をカップに注ぐ手を途中で止め、父は黙って新聞から目を離した。
「なっちゃん?どういうことなの、それ」
「どういうことって、そういうことよ」
私は流しの蛇口をひねる。目が覚めるほどの冷たい水が、私の手とグラスを冷やしてゆく。
「史生は婚約者でも恋人でもなんでもないから。ごめんね。お母さん、結婚式に着る服まで買っちゃったのにね」
母がじっと私のことを見つめている。私はそんな母と目を合わせないまま、蛇口の水を止め、台所を出る。
まるで悲劇の主人公ね……心の中でどこかさめた私が、他人事のように笑っていた。