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「今夜仕事帰りにうちに寄りなよ。何かメシ作っておくから」
その日の史生の電話の声は、いつもより少し明るかった。しかし私はなぜか、史生とふたりきりになるのが怖かった。
「ごめん。今夜妙子と会う約束しちゃったの」
「またふたりで飲み会?」
携帯電話の向こうで史生が笑う。私もファーストフード店のポテトをつまみながら、小さく笑った。
「じゃあさ、妙ちゃんも連れてきなよ。うちで飲み会しよ」
「ええー?いいのー?」
「いいよ。俺ヒマだし……」
病院を退院した後、史生は会社に復帰したが、どうしてもその仕事内容と人間関係を思い出すことができず、会社を辞めてしまった。
私はそれでもいいと思った。無理をしてまで元の仕事を続ける必要はない。史生は遅かれ早かれ会社を辞めて、私の父の工務店で働く予定になっていたからだ。
「なつき、何か食べたいものある?」
私の頭に史生のレパートリーが広がる。
史生の料理の腕は落ちていなかった。幼い頃の記憶はちゃんと残っているし、たとえ頭で忘れたとしても、体が覚えているだろう。史生は私のようにレシピなど見なくても、材料を見ただけでパパッとおいしい料理を作ることができるのだ。
「ビーフシチュー……」
私の口から自然とその言葉が出た。
「シチュー?つまみにならないじゃん。ま、いいけど」
史生がそう言って笑う。史生の頭にあの日の記憶はない。私と一緒にパーティをするはずだった、あの夏の始まりの日。私は一生忘れられないというのに……
「史生くんって、本当にお料理上手なのねぇ」
ビーフシチューを食べる妙子が、ただでさえ大きな目をさらに大きく開いて、感心したように言う。私は笑って自分のことのように自慢した。
「でしょー?特に史生のビーフシチューは絶品なのよ。ね、史生?」
「うーん……」
史生は少し照れたように笑いながら、妙子のグラスにビールを注いだ。
「何かおいしく作る秘訣でもあるの?」
妙子の言葉に史生が答える。
「肉にね、ちょっとした秘密があるんだ。別に高い肉使ってるわけじゃないんだけど」
「へえー何それ?私にも教えてよ」
私がそう言ってテーブルに身を乗り出す。
「俺、なつきに話してなかった?」
「うん。話してないよ」
「そう。じゃあ秘密」
「なによー、ケチー」
私は笑って、わざと史生のグラスをビールでいっぱいにした。史生はあわててグラスに口をつける。
「おい、あふれるだろっ」
「あ、史生くん、こぼれてるこぼれてる!」
妙子がさりげなくタオルを手に取り、史生の服を拭いている。
「まったく……何すんだよ、この酔っ払いがぁ」
史生の声に妙子が笑っている。私も酒がまわってきたこともあり、史生を見ながら大声で笑った。そして心の中で史生を試した自分を軽蔑していた。ビーフシチューの秘密は前にも聞いたことがあったのだ。
「何?そのお肉の秘密って。私に教えてよ」
あれは忘れもしない去年の冬。せっかくの日曜日だというのに私は熱を出して、史生のベッドで1日中ごろごろしていた。そんな私に史生がとっておきのビーフシチューを作ってくれたのだ。
「知りたい?」
「うん、知りたい」
ベッドの上で温かいシチューを食べながら、私はじっと史生を見た。史生はそんな私の頭をくしゃっとなでて「じゃあ結婚しようか?」と言った。「一緒に住めば、そのうちわかるよ」
それが史生のプロポーズの言葉だったのだ。
「なつき?もしかして泣いてる?」
あまりにも笑いすぎて涙をこぼしている私を見て、妙子が少し不安げに言った。
「あはは、笑いすぎ。ちょっとトイレね」
私はそう言って立ち上がる。史生がじっと私のことを見つめているのがわかる。
私は涙が止まらなかった。
史生に思い出してほしかった。すべてを思い出してほしかったのだ。