10
それから数ヶ月がたった真夏の午後、蝉時雨の公園で、私は史生にばったり会った。私はお盆休みをもてあまし、図書館で本を借りてきた帰りで、史生は妙子に会いに行く途中だった。
「元気だった?」
私は史生に言った。普通に目を見て話せる自分が、少し不思議だった。
「うん。なつきは?」
「元気元気。このとおり」
私は同僚と行ったダイビングで焼けた肌を、史生の前に見せ付ける。史生はそれを見て小さく笑った。
「妙子は元気?付き合ってるんでしょ、あんたたち」
私はそう言うと木陰のベンチに座った。史生も何も言わないまま、私の隣に腰をおろした。
ふたりの頭の上で蝉がうるさいほど激しく鳴いている。史生はしばらく黙り込んだ後、私に答えた。
「妙ちゃんは……元気だよ」
「そう」
私はかすかに微笑んでうなずく。
「なつきにはもう会えないって言ってる」
「何言ってんの。今度一緒に飲もうよ。3人でさ」
私は笑ったが、史生は笑わなかった。ただじっと考え込むように、遠くを見つめていた。
「俺、妙子のことが好きなんだ」
やがて史生がポツリと言う。
「なつきのことすっかり忘れて、こんなこと言ってる俺は虫がよすぎるけど……」
「ううん。そんなことないよ。それが今の史生の本当の気持ちなんだから」
私はそう言って史生の顔を覗き込む。史生はそんな私から目をそらすようにうつむいた。
「でもいつかはなつきのことを思い出すかもしれない。そしたら俺、妙子のことをずっと好きでいられるかどうか自信がない。なつきを傷つけて、妙子と付き合って……そして結局ふたりのことを傷つける」
史生のやるせないような声を聞いて、私は胸が痛くなった。
「史生」
私は言った。
「人生に絶対って言葉はないんだって。だからこれでいいのかどうかはわからない。これからまた史生も妙子も私も、どう変わっていくのかわからないし……でも今は、少なくても今は、これでいいんだよ」
「なつき」
史生がゆっくりと顔を上げ私を見た。私はそんな史生の手をしっかりと握りしめる。史生の手は震えていた。帰るところがわからない子供のように震えていた。
「大丈夫。私はこの運命を受け入れられる。だから史生も自分の思うとおりに生きて」
史生は黙って私の手を握り返した。私はそのぬくもりを決して忘れないように肌で感じ取ったあと、そっとその手を離した。
「もう行きなよ。妙子が待ってる」
私はそう言って精一杯の笑顔で史生を見る。史生の目からは涙がこぼれていた。そしてその手が私の肩を抱き寄せたかと思うと、史生の唇は私の首筋に優しくキスをしていた。
ああ、史生は忘れていない。私にいつもしてくれたキスを史生の体は忘れていない。でもこれからこのキスは、すべて妙子のものだ。史生はきっと妙子を抱きしめ、こうやってキスをするんだろう。
「じゃあね」
私はそう言うと立ち上がった。
「さよなら」
史生がつぶやく。私は史生に軽く笑いかけ、ひと気もまばらな公園を歩き出した。
もう涙は出なかった。ただ胸の中が熱かった。見上げると覆い茂る木々の隙間から真夏の空が見えた。
夏の間にこの街を出よう……私は熱でうなされたようにぼんやりとする頭で、そんなことを思った。