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その日の私は幸せだった。
片手に小さな花束を抱え、もう片方の手にはちょっぴり奮発して買った赤ワインをぶらさげ、商店街をニヤニヤと歩く。そんな私は他人から見れば、少しおかしいほどだった。
夕暮れの空はオレンジ色に染まり、買い物客で賑わう店先からは、焼き鳥のほのかな匂いが漂ってくる。焼き鳥にビールでもよかったかなと、今夜の夕食のメニューをちょっぴり後悔しながら、私は少し足を速めた。
史生はもう帰っている頃だ。今日は出張先から直帰して、先に夕食の支度をしてあげると言っていた。
「何が食べたい?」
史生の質問に私は「ビーフシチュー」と答えた。
史生の作るビーフシチューは、とてもいける。幼い頃に母親を亡くし、その後ずっと自分で食事の支度をしてきたという史生にはたくさんのレパートリーがあったが、その中でもこのビーフシチューは格別だった。
「それじゃあ帰りにワインでも買ってきてよ。ビーフシチューに赤ワインでパーティでもしよう」
『パーティ』という言葉にワクワクしながら、私は史生に聞いた。
「何のパーティ?」
史生は少し考えてから答える。
「俺がマスオさんになる前の、独身サヨナラパーティ」
「何それ」
と笑いながら、私は座っている史生の背中にもたれかかった。
「史生。マスオさんになるの、イヤじゃない?」
史生は後ろを振り向き、私に笑いかける。
「イヤじゃないよ。なつきの家族とあの台所でメシ食うの、すごく楽しい。俺、家族の団欒って憧れだったから」
私は子供のような笑顔でそう言う史生をとてもいとおしく感じ、肩越しにそっとキスをした。
見慣れた史生のアパートの窓から、夏の始まりの匂いが漂ってくる。私のキスに答えるように史生は私を抱きしめる。私たちはその唇でお互いの愛を確かめ合いながら、もつれるようにその場に倒れた。
「同居したら、こういうのもおあずけ?」
私の顔を見下ろしながら史生が言う。
「そんなことないよ。いっぱいキスしていっぱい抱き合おう」
「スケベが」
史生は笑っていつものように私の首筋にキスをした。それはこれからふたりが体を寄せ合う、始まりの合図のようなものだった。
「なつき!」
突然私の背中に聞き慣れた声が響いた。振り返りきょろきょろとあたりを見回すと、横断歩道の向こうで史生が手を振っていた。
「どうしたの?」
赤い歩行者信号の下に立つ史生に向かって、私は身振り手振りで聞いた。歩道の両側に立つ私たちの間には、何台かの車が行き来している。
「肉買うの忘れてた」
史生が苦笑いしながらミートショップの袋を掲げる。ビーフシチューを作るのにビーフを買い忘れるやつがあるか?史生はしっかりしているようでどこか抜けているのだ。しかしそんな不完全さが、私の母性本能をくすぐっているのだが……
私は目の前の信号をじっと見つめる。早く青に変わらないかとワクワクしながら史生を待つ。
「バカねぇ。お肉忘れてどうするのよ?」
史生が来たらこう言ってから、このワインのビンを持たせよう。そして空いたこの手で史生の腕を抱いて、ふたりべたべた寄り添って歩こう。
アパートまであと5分。着いたらお花を飾って、ふたりだけでささやかな結婚前のパーティをするのだ。
歩行者信号が青に変わる。並んで立っている人の群れから、史生が1番に飛び出す。青になるのが待ちきれなかった子供みたいだ……私が史生を見て小さく笑った時、1台の車が横断歩道の中に突っ込んできた。