桜の木の下で
春休みの終わり頃、僕の毎日は少しずつ色褪せ始めていた。
僕の名前は慶。小学校の卒業式が終わってからというもの、何をしても心が浮つかない。
友達と遊ぶのも、ゲームをするのも、全部がぼんやりと遠く感じる。
そんなとき、僕はいつものように裏庭の遅咲きの桜の木の下へ行った。
他の木はもう葉桜になって、地面に落ちた花びらは雨に濡れて茶色く変色していた。
でもこの一本だけはまだ淡い桃色を保っていて、風が吹くたびに静かに散り続けている。
まるで、時間がここだけ止まっているみたいだった。
初めて彼女を見たのは、そんな夕暮れの時間だった。
細い体に、薄い桜色のワンピース。
長い黒髪が肩を越えて、風に揺れるたび花びらと混じり合う。
彼女は木の根元にしゃがみ込んで、落ちた一枚の花びらを指先でそっと撫でていた。
僕が近づくと彼女はゆっくり顔を上げた。
目が合った瞬間、胸の奥が小さく震えた。
中学の制服じゃない。知らない顔。でもなぜか、懐かしい気がした。
「……ここ、いつも来てるの?」
彼女の声は小さくて、風に溶けそうだった。
「うん……この木が好きで」
「私も」
それだけ言って彼女はまた花びらを見つめた。
僕はその隣にそっと座った。
言葉はほとんどなかった。ただ、同じ空気の中で桜を見ていた。
それから毎日夕方になると、僕はここに来るようになった。
彼女も来るようになった。
名前を聞くと、「さくらって呼んでいいよ」と言われた。
本名かどうかはわからない。でもそう呼ぶと、彼女は少しだけ目を細めて微笑んだ。
話すことは、いつも些細なことばかりだった。
「今日、アイス食べた?」
「ううん。代わりに、桜の花びら見てた」
「僕も」
「同じだね」
そんな会話がなんだか嬉しかった。彼女の声は静かで、でも耳に残る。
笑うときは口元だけが動いて、目は少し寂しげに伏せられる。
その表情を見るたび、胸が締めつけられるのに、なぜか離れたくなかった。
ある日、彼女が小さな紙袋を持って来た。
中にはコンビニの桜餅が二つ。
「一緒に食べよ」
「いいの?」
「うん。一人じゃ、なんだか味気ないから」
桜餅を頬張りながら、彼女はぽつりと言った。
「桜って、きれいだけどすぐ散っちゃうよね」
「うん……でも、それがいいのかも」
「どうして?」
「散らないと、次の春が来ないから」
彼女は少し考えて、それから小さく頷いた。
「そうだね……次の春、か」
その言葉のあと彼女の視線が遠くへ行った。
僕はその横顔をじっと見つめていた。
風が吹いて、花びらが彼女の髪に何枚も絡まる。
まるで、彼女が桜の一部になってしまうみたいだった。
日が経つにつれて、僕は気づき始めた。
彼女の話には、いつも「去年」や「去年の春」が少しだけ入る。
でも、「来年」の話は決してしない。
「来年も、ここで桜見ようよ」
僕は勇気を出して言ってみた。 喉が乾いて声が少し震えた。
彼女は花びらを指でくるくる回しながら、静かに答えた。
「……来年は、ちょっと難しいかも」
「どうして?」
長い沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いた。
「引っ越しが決まっちゃって。新学期前に…。もういなくなるの」
心臓がずしんと重くなった。
「いつ……?」
「あと、少しだけ…」
それから僕たちはもっと静かになった。
話す言葉が減って、ただ隣にいる時間が長くなった。
彼女の手が時々僕の袖を軽くつかむ。
その感触が温かくて、でも儚くて、離したくなかった。
最後の夕方。
空は薄いオレンジに染まっていた。
桜の花びらはもうほとんど残っていなくて、木の枝が少し寂しげに見えた。
彼女はいつもより少し遅れて現れた。
手に小さな桜の形のヘアピンを持っていた。
「これ……あげる」
「え、いいの?」
「うん。君に似合うと思う」
彼女は僕の髪にそっとつけてくれた。指先が耳に触れて、ぞわっとした。
「ありがとう……」
「またいつか…」
彼女はそう言って、桜の木を見上げた。
風が強く吹いた。
残っていた花びらが一気に舞い上がって、僕たちの視界を埋め尽くした。
桃色の渦の中で、彼女の姿が少しずつ薄れていく。
「……さくらちゃん」呼びかけた声は風にかき消された。
花びらがすべて落ちきったとき、彼女はいなかった。
木の下には何も残っていなかった。
ただ僕の髪に刺さった小さなヘアピンが、かすかに揺れているだけ。
僕はそれを外して、手のひらにのせた。
冷たくて…でも、彼女の温もりがまだ残っている気がした。
涙がこぼれた。
でも、声は出なかった。
ただ胸の奥が、ゆっくりと痛んだ。
それから何日か経って、新学期が始まった。
教室の窓から見える桜は、もう完全に葉桜になっていた。
僕は毎日、放課後にあの木の下へ行く。
誰もいない。
風が吹いても、花びらはもう舞わない。
でも、時々思う。
彼女はどこかで、別の春を迎えているのかもしれない。
別の桜の下で、誰かと静かに座っているのかもしれない。
それでいいと思う。
だって、彼女がくれたものは散らないから。
髪に刺さっていたヘアピンは、今も僕の机の引き出しにしまってある。
時々取り出して指で触れる。
すると胸の奥に、あの淡い桃色の夕暮れがよみがえる。
いつかまた、桜が咲く頃に。
風が花びらを運んでくるように、
彼女の記憶が、そっと戻ってくるかもしれない。
僕はそう信じて待っている。
―終わり―




