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桜の木の下で

作者: 空野 翔
掲載日:2026/03/28

春休みの終わり頃、僕の毎日は少しずつ色褪せ始めていた。

僕の名前は慶。小学校の卒業式が終わってからというもの、何をしても心が浮つかない。

友達と遊ぶのも、ゲームをするのも、全部がぼんやりと遠く感じる。

そんなとき、僕はいつものように裏庭の遅咲きの桜の木の下へ行った。

他の木はもう葉桜になって、地面に落ちた花びらは雨に濡れて茶色く変色していた。

でもこの一本だけはまだ淡い桃色を保っていて、風が吹くたびに静かに散り続けている。

まるで、時間がここだけ止まっているみたいだった。


初めて彼女を見たのは、そんな夕暮れの時間だった。


細い体に、薄い桜色のワンピース。

長い黒髪が肩を越えて、風に揺れるたび花びらと混じり合う。

彼女は木の根元にしゃがみ込んで、落ちた一枚の花びらを指先でそっと撫でていた。


僕が近づくと彼女はゆっくり顔を上げた。

目が合った瞬間、胸の奥が小さく震えた。

中学の制服じゃない。知らない顔。でもなぜか、懐かしい気がした。

「……ここ、いつも来てるの?」

彼女の声は小さくて、風に溶けそうだった。

「うん……この木が好きで」

「私も」

それだけ言って彼女はまた花びらを見つめた。

僕はその隣にそっと座った。

言葉はほとんどなかった。ただ、同じ空気の中で桜を見ていた。


それから毎日夕方になると、僕はここに来るようになった。

彼女も来るようになった。

名前を聞くと、「さくらって呼んでいいよ」と言われた。

本名かどうかはわからない。でもそう呼ぶと、彼女は少しだけ目を細めて微笑んだ。


話すことは、いつも些細なことばかりだった。

「今日、アイス食べた?」

「ううん。代わりに、桜の花びら見てた」

「僕も」

「同じだね」

そんな会話がなんだか嬉しかった。彼女の声は静かで、でも耳に残る。

笑うときは口元だけが動いて、目は少し寂しげに伏せられる。

その表情を見るたび、胸が締めつけられるのに、なぜか離れたくなかった。


ある日、彼女が小さな紙袋を持って来た。

中にはコンビニの桜餅が二つ。

「一緒に食べよ」

「いいの?」

「うん。一人じゃ、なんだか味気ないから」

桜餅を頬張りながら、彼女はぽつりと言った。

「桜って、きれいだけどすぐ散っちゃうよね」

「うん……でも、それがいいのかも」

「どうして?」

「散らないと、次の春が来ないから」

彼女は少し考えて、それから小さく頷いた。

「そうだね……次の春、か」


その言葉のあと彼女の視線が遠くへ行った。

僕はその横顔をじっと見つめていた。

風が吹いて、花びらが彼女の髪に何枚も絡まる。

まるで、彼女が桜の一部になってしまうみたいだった。


日が経つにつれて、僕は気づき始めた。

彼女の話には、いつも「去年」や「去年の春」が少しだけ入る。

でも、「来年」の話は決してしない。

「来年も、ここで桜見ようよ」

僕は勇気を出して言ってみた。 喉が乾いて声が少し震えた。

彼女は花びらを指でくるくる回しながら、静かに答えた。

「……来年は、ちょっと難しいかも」

「どうして?」

長い沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いた。

「引っ越しが決まっちゃって。新学期前に…。もういなくなるの」

心臓がずしんと重くなった。

「いつ……?」

「あと、少しだけ…」

それから僕たちはもっと静かになった。

話す言葉が減って、ただ隣にいる時間が長くなった。

彼女の手が時々僕の袖を軽くつかむ。

その感触が温かくて、でも儚くて、離したくなかった。


最後の夕方。

空は薄いオレンジに染まっていた。

桜の花びらはもうほとんど残っていなくて、木の枝が少し寂しげに見えた。


彼女はいつもより少し遅れて現れた。

手に小さな桜の形のヘアピンを持っていた。

「これ……あげる」

「え、いいの?」

「うん。君に似合うと思う」

彼女は僕の髪にそっとつけてくれた。指先が耳に触れて、ぞわっとした。

「ありがとう……」

「またいつか…」

彼女はそう言って、桜の木を見上げた。

風が強く吹いた。

残っていた花びらが一気に舞い上がって、僕たちの視界を埋め尽くした。

桃色の渦の中で、彼女の姿が少しずつ薄れていく。

「……さくらちゃん」呼びかけた声は風にかき消された。


花びらがすべて落ちきったとき、彼女はいなかった。

木の下には何も残っていなかった。

ただ僕の髪に刺さった小さなヘアピンが、かすかに揺れているだけ。

僕はそれを外して、手のひらにのせた。

冷たくて…でも、彼女の温もりがまだ残っている気がした。


涙がこぼれた。

でも、声は出なかった。

ただ胸の奥が、ゆっくりと痛んだ。


それから何日か経って、新学期が始まった。

教室の窓から見える桜は、もう完全に葉桜になっていた。


僕は毎日、放課後にあの木の下へ行く。

誰もいない。

風が吹いても、花びらはもう舞わない。


でも、時々思う。

彼女はどこかで、別の春を迎えているのかもしれない。

別の桜の下で、誰かと静かに座っているのかもしれない。

それでいいと思う。

だって、彼女がくれたものは散らないから。


髪に刺さっていたヘアピンは、今も僕の机の引き出しにしまってある。

時々取り出して指で触れる。

すると胸の奥に、あの淡い桃色の夕暮れがよみがえる。


いつかまた、桜が咲く頃に。

風が花びらを運んでくるように、

彼女の記憶が、そっと戻ってくるかもしれない。

僕はそう信じて待っている。


―終わり―


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