すべては殿下のご命令でございます。
ふと思い付いて書いた婚約破棄。
夜会は、盛況だった。
着飾った紳士淑女の談笑。楽団の演奏。曲に合わせて仲睦まじくダンスを踊る婚約者たち……。
そんな中、突然、演奏を止めさせるほどの大声が、夜会の会場に響き渡った。
「エメラルド・コーデン! キサマは王太子たるこの私の婚約者に相応しくはないっ!」
小動物のように愛らしい桃色髪の女性……オードリー・シャンド男爵令嬢の肩を抱き寄せながら、叫んだのはフェアブラザー王国の王太子、トリスタン。
突然の叫びに困惑する周囲。
楽団の演奏も途切れた。
「キサマとの婚約を破棄する!」
エメラルドは、婚約破棄を受けて、美しい淑女の礼を執った。
「かしこまりました、王太子殿下。ご命令とあらば、婚約の破棄、承諾いたします」
そして、ゆったりと顔を上げてから、優雅に微笑む。
「ですが、優秀なる王太子殿下にご教授いただいてもよろしくて? わたくしのどこが婚約者に相応しくないのでしょう?」
悲壮感など全くない。余裕すら感じられるおっとりとした口調でエメラルドが問う。
トリスタンは「ふんっ!」と鼻を鳴らした。
「キサマはこのオードリーを冬の池に突き飛ばした!」
「まあ……。それが?」
「その上彼女の教科書もビリビリに破いた」
「それだけですの?」
「まだ罪状はあるっ! 階段から彼女を突き飛ばした! 知らんとは言わせないぞっ! 目撃者だって多いのだ!」
「そうでございますわねえ。人目の多い場所でございますから、当然、衆目に晒されましたわね」
周囲から「わたしも見ました」「オレも見たぞ」「確かにコーデン侯爵令嬢がシャンド男爵令嬢を階段から突き飛ばした」と、声が上がる。
エメラルドは「行いましたが、それが?」と悪びれもしない。
「この悪女め! 可憐なオードリーに危害を加えてなんとも思わないのか!」
「まあ……トリスタン殿下。そのお言葉、そのままそっくりお返しいたしますわ」
「何だと⁉」
「わたくしは、トリスタン王太子殿下のご命令により、オードリー・シャンド男爵令嬢を虐めておりました。わたくしは殿下のご命令に従ったまで」
エメラルドの発言を、この場にいる者たちは、瞬時には理解できなかった。
「は?」
「ええと、コーデン侯爵令嬢は今何と言ったのかしら……?」
ざわざわとした困惑が、夜会会場内に広がっていく。
「あら、皆様、お分かりになりませんか? トリスタン王太子殿下はシャンド男爵令嬢を見初めてしまった。けれど、わたくしという王命によって決められた婚約者が居る。婚約破棄は難しい上に、シャンド男爵令嬢も王太子殿下という身分に委縮して、初めは殿下の手を取ろうとはしなかった。そこで、トリスタン殿下は一計を案じた」
エメラルドはにっこりと微笑んで、そして告げた。
「『王太子の命令だ、聞け! エメラルドっ! お前はオードリー・ド・シャンド男爵令嬢を虐め抜け! 私がオードリーを庇うっ! そうすれば、オードリーは私と恋仲になり、彼女を王太子妃にできる! キサマという悪役が居れば、愛の炎など燃え盛るものだ!』」
エメラルドはトリスタン王太子の口調をまねて、高らかに。
「自作自演。物語でよくあるように、わたくしをいわゆる『悪役令嬢』に仕立て上げ、ご自分は『ヒーロー』となり、オードリー・ド・シャンド男爵令嬢という『ヒロイン』と結ばれる。トリスタン殿下のご命令通り、わたくしは『悪役令嬢』を演じたまでですわ」
水を打ったように、夜会の会場は静まり返った。
そんな中、今の今まで、『虐めを受けるが健気にも耐え、王太子に見初められた可憐なヒロイン』だと思い込んでいたオードリーが、声を震わせながら、言った。
「じ、自作自演……? トリスタンが、あたしを、コーデン侯爵令嬢に、虐めるように、命じた……。嘘でしょう……」
目を見開いて、オードリーはトリスタンを見る。
「ち、違うぞっ! 私は……、オードリーを虐めよなどと命じていないっ! 悪女の言い訳だっ!」
けれど、トリスタンの額から、一筋、汗が流れ落ちた。
オードリーは、さっと、トリスタンから離れた。
「しょっ! 証拠はっ! 私がエメラルドに命じたという証拠はないぞっ!」
トリスタンの声も震えていた。
「ええ。トリスタン王太子殿下がわたくしに命じたという『事実』はありますが、『証拠』はございませんわね」
エメラルドはにっこりと笑う。
「ですが、殿下。わたくしが本気でシャンド男爵令嬢を排そうとするならば、突き飛ばすだの教科書を破くなど、そんな手段は取りません」
「な、なんだと!」
「自分の手を汚さず、わたくしの貴重な時間をかけずとも。一言で済むのです」
「な、何を言うというのか!」
「『シャンド男爵令嬢はこのわたくしに不敬を働きましたの……』と」
ただそれだけで済む話ですわ……と、エメラルドは告げる。
「わたくしが一言そういえば、我がコーデン侯爵家の家門に連なるものは、シャンド男爵令嬢を排そうと動きます。令息・令嬢だけではなく、それぞれの親もですわね。シャンド男爵家との関係を切り、商売上の契約を結んでいる者は契約を解消します」
具体的に何をしろと命じることもない。
家門の者、付き合いのある者たちが、勝手にエメラルドの意志を忖度して、動く。
たしかにエメラルドの言う通りだ……と、オードリーは思った。
そして、また一歩、王太子であるトリスタンから離れた。
夜会に参加している大勢が「その通りだな」と頷いていた。
「わたくしが一言いえば、済む話。何故わざわざこのわたくしが自分の手で、シャンド男爵令嬢を虐めたのか。そんな時間の無駄をせねばならなかなったのも、王太子殿下、あなた様のご命令であったからですわ」
証拠はございませんけどね……と、エメラルドは微笑む。
「殿下とわたくしの婚約は王命。よって、わたくしからは破棄できない案件でしたの。ですが、トリスタン王太子殿下からの馬鹿々々しいご命令を聞けば、今、この場で殿下がおっしゃった通り、あなた様からわたくしとの婚約を破棄してくださるでしょう? ですから、わたくし、殿下のご命令通り、この手でオードリー・シャンド男爵令嬢を虐めさせていただきました」
すべては殿下のご命令でございます。
エメラルド・コーデン侯爵令嬢は、薔薇の花のように、鮮やかに笑った。
***
「で? エメラルド姉様。王太子の命令ってホントだったの?」
コーデン侯爵家の屋敷。薔薇園の見下ろせるバルコニーで、優雅に午後のお茶を楽しみながら、エメラルドの弟であるクリストフが聞いた
「クリストフ? 発言は正確にね。王太子殿下ではなく、既に『元・王太子』よ」
「あー、そうだった。廃嫡になったんだよね。トリスタン元王太子殿下……敬称はどうでもいいんだけど。苛めの命令なんてホントにあったの?」
エメラルドはくすくすと笑う。
「さて、どうでしょう?」
嘆息をしてから、クリストフは壁際に控えている使用人にお茶のおかわりを……と、命じた。
トリスタンなどという阿呆とは違って、クリストフの姉であるエメラルドは頭が切れる。
王太子からの命令があったかなかったか。
真実はどうでもいいのだ。
男爵令嬢に対する虐めなど、自らの手を汚すことなく行うことができる侯爵令嬢が、わざわざ自分の手で行う。
しかも衆目に晒される位置で、男爵令嬢を階段から突き飛ばしたなど……。
普通ならあり得ない。
小説や演劇のように、嫉妬にかられ、つい行ってしまった……などという短慮は、エメラルドには似合わない。
そもそも元から、エメラルドは「王命に従い、王太子の婚約者を引き受けた」という態度しかとっていないのだ。
王太子が恋人を作れば、苛めなどせず、これ幸いと婚約者の地位を返上する。
そのような態度をこれまで取ってきたエメラルドが、わざわざオードリーなどと言う小娘を、自分の手で虐める。
当然、なんらかの策略があるはずだ……と、貴族であれば、思うのは当然。
「王太子の命令によって、男爵令嬢を虐めていた」とはっきり言えば、なるほど……と、皆が納得をしたのだ。
真実がどうであるかは無関係に。
国王さえ「なるほど、分かった」と言って、さっさとトリスタンとエメラルドの婚約を無くし、そして、トリスタンを廃嫡したのだから。
「証拠があるか、ないかなど関係ないの。大切なのは、皆が納得をすること」
「なるほど。勉強になります」
姉であるエメラルドは静かに微笑みながら。
弟であるクリストフは少々汗を掻きながら。
二杯目のお茶を、堪能したのであった。
終わり