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第8話:スプーンとアイスピック

 雪村冬真の世界から、音が消えた。

 ギルドの談話室の喧騒も、窓の外を走る市電の走行音も、目の前に座る氷室凛の息遣いさえも、すべてが遠い。

 彼の意識は、一枚の古いスケッチ――『霜降りグリズリー』の肉の断面図――に描かれた、白いサシの模様に完全に囚われていた。


 脳裏に、幻覚イマジネーションが爆発する。

 それは、まだ誰も見たことのない、究極の一杯の姿だった。


 焦げ茶色のスープの銀河に、純白の星々が生まれては消える。それは獣の脂が溶け出した、生命の流星群。スパイスの粒子がその流星と結びつき、新たな香りの分子となって、黄金のオーラのように立ち上る。

 グリルされた分厚いグリズリー肉。その表面で、聖なる脂がぷつぷつと宝石のように泡立ち、滴り落ちる雫がスープの海に複雑な波紋を描く。

 素揚げされたカボチャやナスが、その脂を纏って艶やかな輝きを増し、完璧な半熟卵の黄身は、これから訪れる奇跡の味を前に、期待に打ち震えているかのようだ。


 その幻の一杯を、スプーンで掬い上げる。

 口に運んだ瞬間、一体、何が起きるのか。

 脳が焼けるほどの感動か。魂が震えるほどの法悦か。

 それは、もはや『食事』という行為ではない。未知との遭遇。新しい宇宙の発見。

 冬真は、そのまだ見ぬ味の探求者として、今、ここにいる。


 長い、長い沈黙。

 凛は、固唾を飲んで冬真の返事を待っていた。彼女の放った言葉が、彼の中でどのような化学反応を起こしているのか、見極めようとしていた。


 やがて、冬真は幻覚の海から浮上するように、ゆっくりと顔を上げた。

 その表情は、もはやC級の気の弱い探索者のものではなかった。

 瞳の奥に、揺るぎない決意の炎が灯っていた。


「……やりましょう、氷室さん」


 静かだが、腹の底から響くような声だった。


「その話、乗りました。『霜降りグリズリー』、獲りに行きましょう」


 その言葉を聞いた瞬間、凛の張り詰めていた表情が、ほんのわずかに、しかし確かに緩んだ。彼女は小さく頷くと、すぐさま思考を切り替え、テーブルの上の地図を指し示した。その声には、もはや冬真を試すような響きはない。対等なパートナーに対する、プロフェッショナルの声だった。


「決まりね。では、作戦を詰めるわ。グリズリーの縄張りまでは、資料上、西の尾根ルートが最短。でも、オークの集落を二つ抜けるリスクがある」

「いえ」


 冬真は、凛の言葉を遮った。そして、地図の別の箇所を指さす。


「北側の沢沿いルートを。俺のスキルで広域鑑定した限り、あの一帯には『月光草』という薬草が群生している。オークは、あの草の強い香りを嫌うはずです。遠回りにはなりますが、リスクは格段に低い」

「……なるほど。あなたの『眼』は、そういう使い方もできるのね」


 凛は素直に感心し、そのルートをペンでなぞった。


「問題は、グリズリー本人だ。B級探索者でも、単独での討伐は困難を極める。あなたの護衛をしながら、私がどれだけ火力を集中できるか……」

「弱点は、あります」


 冬真は、グリズリーの生態スケッチを指さした。


「このスケッチと俺の鑑定予測を照合すると、首筋のこの部分。美しいサシが、唯一途切れている場所。ここに、神経の集中帯がある可能性が高い。肉の価値を落とさず、かつ、一撃で仕留めるなら、狙うべきはここしかない」


 凛は、冬真が示した一点を、食い入るように見つめた。

 マクロな戦術眼を持つ自分と、ミクロな観察眼を持つこの男。

 二人が揃えば、あるいは。

 そんな確信に近い予感が、彼女の胸に芽生え始めていた。


 作戦会議を終える頃には、ギルドの窓の外は、美しい夕暮れに染まっていた。

 テレビ塔がシルエットとなり、家路につく人々や車の流れが、まるでジオラマのように小さく見える。

 二人は黙って立ち上がり、談話室を後にした。


 階段を下りながら、冬真はぼんやりと考えていた。

 俺は、まだ食べたことのない一杯のスープカレーのために、命を懸けようとしている。

 傍から見れば、それは滑稽で、ひどく愚かなのかもしれない。

 でも、今の俺には、それこそが世界で最も価値のある、胸を張れる挑戦に思えた。


 ギルドの出口で、二人は立ち止まる。


「では、明後日の早朝に」

「はい」


 交わす言葉は、それだけだった。

 だが、彼らの間には、もはや初対面の頃のぎこちなさはない。同じ獲物を見据える、「共犯者」としての静かな連帯感が、確かに存在していた。


 彼の腰には、使い古された解体用ナイフと、端っこが少しだけよれたスープカレー屋のグッズのスプーン。

 彼女の手には、鋭く尖った白樺のアイスピック。


 スプーンとアイスピック。

 そんな、あまりにもちぐはぐな二人の、奇妙で、そしておそらくは、最高に美味い冒険が、今、始まろうとしていた。


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