第7話:手稲山という、高すぎる壁
翌日、冒険者ギルド札幌支部の二階、談話室のテーブルの上には、一枚の大きな地図が広げられていた。
緻密な等高線、マーカーで色分けされたモンスターの生息域、そして危険地帯を示す赤いドクロのマーク。それは、雪村冬真がこれまで縁のなかった、中級ダンジョン『手稲山』の攻略マップだった。
その地図を指し示しながら、氷室凛は淀みなく説明を続けている。彼女の隣で、冬真は出されたアイスコーヒーのグラスを握りしめ、ただただ呆然と、その声を聞いていた。
「手稲山ダンジョンは、ここ狸小路のような閉鎖型とはレベルが違う。広大な森林と雪原が広がるフィールド型。出現するモンスターも、オークやウルフ、冬期にはアイス・スピリットも確認されているわ」
「……」
「私たちの目的は、その最奥部にあるとされる洞窟。そこに、目標である『霜降りグリズリー』が棲んでいる可能性が高い」
凛の話す内容は、あまりにも現実味がなかった。それはまるで、遠い国の戦争の話を聞いているかのようだった。
「……いやいやいや、無理ですって」
凛の説明が一区切りついたところで、冬真はかろうじて声を絞り出した。
「死にますよ、普通に。俺、C級ですよ? あなたはB級だからいいですけど、俺みたいなのが手稲山なんて行ったら、オークの朝飯になるのが関の山です」
彼の価値観は、徹頭徹尾『安全第一』。日々のスープカレーを穏やかに味わうこと。その平穏を脅かすリスクは、全て排除するべきだった。手稲山攻略など、その対極にある、最も愚かで危険な行為に思えた。
「昨日の稼ぎで、もう今週は安泰なんです。しばらくはダンジョンに潜らなくても、つつましく暮らせばスープカレーも食べられる。だから、今回は……」
「あなたは、自分のスキルの価値をまるで理解していないのね」
冬真の言葉を、凛は冷ややかに遮った。その空色の瞳には、ありありと苛立ちの色が浮かんでいる。
「あなたの『眼』があれば、無駄な戦闘を避け、最小限のリスクで目標に到達できる。それは、どんな高ランクの索敵スキルにも勝る、唯一無二の能力よ」
「そりゃ、まあ、そうかもしれませんけど……」
「霜降りグリズリーを狩れば、その素材は市場で破格の値段で取引される。手に入る賞金は、あなたのようなC級探索者が、十年かけて稼ぐ額を上回るわ」
凛は、合理的に、そして論理的に説得を試みる。それが、彼女が知る唯一の交渉術だった。
「そうなれば、あなたは毎日でもスープカレーが食べられる。それも、最高のトッピングを全部乗せた、スペシャルなやつがね」
だが、その合理的な説得は、冬真の心には全く響かなかった。
「毎日最高のスープカレーを食べたら、ありがたみが薄れるじゃないですか」
「……は?」
「たまにしか食べられないから、美味いんですよ。今日の稼ぎで明日は何を食べようかって、悩む時間が一番楽しいんです。毎日がご馳走だったら、それはもう、ご馳走じゃなくて、ただの餌ですよ」
凛は、言葉を失った。目の前の男の価値観は、彼女の理解の範疇を、あまりにも軽々と超えていた。
金も、名誉も、力も、通用しない。
この男を動かすことができるロジックは、この世に存在するのだろうか。
凛は、初めて壁にぶつかったような無力感を味わった。だが、彼女は諦めなかった。合理的な説得がダメなら、別の方法を試すまで。
彼女は、昨日の『食事』が、この男を動かす唯一の鍵であることを、すでに学習していた。
「……わかったわ」
凛はため息をつき、テーブルに広げた資料の中から、一枚の古いスケッチを取り出した。それは、ギルドの資料室の奥から探し出してきた、『霜降りグリズリー』の生態記録の一部だった。熊とも猪ともつかない、巨大な獣の姿が、克明なタッチで描かれている。
そして、その隣には、肉の断面図。
赤身の肉の中に、まるで大理石の模様のように、白く美しいサシが緻密に入り込んでいる。
凛は、そのスケッチを冬真の目の前に、トン、と突きつけた。
「……見て」
その声は、先ほどまでの苛立ちが嘘のように、静かで、しかし確信に満ちていた。
「このサシ。この脂の融点は、人間の体温よりも低いそうよ」
冬真の視線が、スケッチの断面図に吸い寄せられる。ゴクリ、と喉が鳴った。
凛は、続ける。
冬真の目を見つめ、まるで甘美な呪いをかけるかのように、言葉を紡いだ。
「この肉で、あなたの行きつけの店のスープカレーを作ったら……」
冬真の脳裏に、あの店の、スパイスの宇宙が凝縮されたかのようなスープが、鮮明に思い浮かぶ。
「……想像もつかない味がするでしょうね」
そうだ。あのスープに、この肉が。極上の脂が。溶け込んだとしたら。
「あの店のスープが、この極上の脂と出会った時、一体どんな奇跡が起きるのかしら」
冬真の世界から、音が消えた。
ギルドの喧騒も、凛の声も、もう聞こえない。
彼の思考は、ただ一点。これまで体験したことのない、究極の一杯へと収束していく。
それは、もはやスープカレーではない。神々の飲み物とでも呼ぶべき、未知の領域。
冬真の瞳から、それまでの気弱さや面倒くさがりな光が、すうっと消えていく。
そして、その代わりに灯ったのは。
獲物を狙う、飢えた『狩人』の光だった。