第6話:ジャイアントラットのハーブ焼き
氷室凛は、混乱していた。
目の前の男は、つい先ほどまで行われていた『実技試験』という、ある種の緊張感をはらんだ儀式の真っ最中だったはずだ。それが今や、まるでキャンプにでも来たかのように、実に楽しげに、生き生きとした表情で火の世話をしている。
B級探索者である自分の常識では、ダンジョン内での火気の使用は、モンスターを呼び寄せる自殺行為に等しい。だが、男はこともなげに、周囲の気配を探りながら、最も安全な場所を選んで小規模な焚き火を起こしていた。その危機管理能力は、彼の風体からは想像もつかないほど的確だった。
「これ、さっきのジャイアントラットの……」
凛が呆然と呟くと、男――雪村冬真は、油紙に包んでいた薄桃色の肉を広げながら、にこりと笑った。
「はい。尻尾の付け根の肉。一番美味いところです」
彼はそう言うと、ポーチから岩塩の欠片と、乾燥させて砕いたハーブの入った小さな革袋を取り出した。そして、慣れた手つきで肉の両面に、それらを丁寧に擦り込んでいく。その手つきは、先ほどの解体作業の時とはまた違う、繊細で愛情のこもった「料理人」のそれだった。
「こいつのこの部位は、運動量が多くて適度に脂が乗ってるんです。筋肉の繊維が細かいから、火を通しても硬くならない」
冬真は、独り言のように、しかしどこか誇らしげに語る。
「このハーブは、ダンジョンの浅い階層に生えてる『風切草』。肉の臭みを消して、爽やかな香りを引き立てる効果があるんですよ」
熱せられた黒光りする鉄板の上に、下ごしらえを終えた肉が置かれる。
じゅう、と。
心地よい音が、静かなダンジョンの中に響き渡った。
それは、原始的で、抗いがたい生命の賛歌だった。薄桃色の肉が熱で収縮し、表面にじわりと透明な脂が滲み出す。香ばしい匂いが立ち上り、ハーブの爽やかな香りと混じり合って、凛の鼻腔をくすぐった。
凛は、ゴクリと喉が鳴るのを、自分でも止められなかった。
「ダンジョンは、最高の食材庫なんですよ」
冬真は、まるで宝物でも眺めるかのように、鉄板の上で焼けていく肉から目を離さずに言った。
「モンスターも、キノコも、草も。全部、この場所でしか味わえない、一期一会の味なんです」
やがて、肉は完璧なミディアムレアに焼きあがった。冬真は近くに落ちていた乾いた木の枝をナイフで削り、即席の串を作ると、焼きあがった肉を数切れ刺し、凛の前にそっと差し出した。
「どうぞ。熱いうちに」
差し出された、モンスターの肉。
普段の彼女であれば、あり得ない、と一蹴しただろう。不衛生で、危険で、何より非合理的。それが、彼女の常識だった。
だが、今の彼女の目の前にあるのは、ただの『モンスターの肉』ではなかった。それは、抗いがたいほどの魅力を放つ、完璧な一皿の『料理』だった。
凛は、逡巡した。ほんの数秒。
だが、彼女の身体は、その思考よりも正直だった。すっと手が伸び、木の串を受け取っていた。
そして、ためらいがちに、その一切れを口に運んだ。
―――次の瞬間、彼女の空色の瞳が、驚きに大きく見開かれた。
歯を立てると、サク、という小気味よい食感と共に、閉じ込められていた肉汁が口の中に溢れ出す。野生的な、しかし一切の臭みがない、力強い肉の旨味。それを、岩塩の絶妙な塩気とミネラル感が引き立て、後から鼻に抜ける風切草の爽やかな香りが、全てを完璧に調和させている。
美味い。
その、あまりにも単純で、純粋な感想が、凛の脳を支配した。
これまで、食事はただのエネルギー補給であり、作業でしかなかった。味など、二の次、三の次。そんな彼女が、生まれて初めて、心の底から「美味しい」と感じていた。
凛は、無言で、二切れ、三切れと食べ進めた。
冬真は何も言わず、ただ自分も同じものを頬張りながら、満足そうに目を細めている。
二人の間に、言葉はなかった。
だが、熱い鉄板と、香ばしい肉と、穏やかな焚き火の光が、彼らの間に初めて、温かく、そして確かなコミュニケーションを生み出していた。
食べ終えた後、気まずい沈黙が流れた。
自分のペースを完全に乱されたことへの苛立ち。未知の感動を与えられたことへの戸惑い。そして、この男の前で、自分がひどく無防備になってしまったことへの羞恥。様々な感情が入り混じり、凛はどう反応していいかわからなかった。
彼女は、それら全てを振り払うかのように、ぶっきらぼうに立ち上がった。
「……悪くない、わね」
そっぽを向きながら、呟くように言った。あまりにも小さな声で、冬おまには聞こえなかったかもしれない。
「え?」
冬真が聞き返すと、凛は少しだけ振り返り、もう一度、今度は少しだけはっきりと告げた。
「その料理、悪くないと言ったの」
そして、続けた。
「だから、明日も午前10時にここへ来なさい」
「え、明日も……?」
「次は、もっといい『食材』で、もっと美味いものが作れるでしょう」
凛は、初めて、挑戦的な笑みを、ほんの少しだけ口元に浮かべた。
「手稲山の『霜降りグリズリー』なら、ね」
『食材』
彼女が、はっきりとそう言った。
凛が初めて、モンスターを冬真と同じ視点で見た、その瞬間だった。
その言葉の意味の大きさに、今度は冬真の方が、呆然と彼女を見つめ返すことしかできなかった。