第4話:最悪の出会い、あるいは最高の出会い
通路の奥から聞こえていた鋭い音は、やがて止んだ。
岩陰に息を潜めていた雪村冬真は、気配が完全に遠のいたのを確かめると、ほう、と安堵のため息をついた。好奇心はあったが、面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだった。特に、あの芸術的すぎる氷のオブジェを作り出すような相手とは。
今日の目標金額は、先ほどのゴブリンで達成済みだ。長居は無用。冬真は踵を返し、来た道を着実に、しかし心持ち早足でダンジョンの出口へと向かった。早く今日の稼ぎを確定させて、あの聖地へ向かわなければならない。彼の頭の中は、すでに今夜食べるべきスープカレーのことでいっぱいだった。チキンにするか、ポークにするか。トッピングの野菜は、揚げブロッコリーを追加するか否か。それは彼にとって、世界の行く末よりも重要な問題だった。
冒険者ギルド札幌支部は、オフィスビルと商業施設がひしめく大通西4丁目にあった。ガラス張りの近代的なビルの1階フロアが、受付と換金所に充てられている。そこは、ファンタジーと現実が最も色濃く交差する、この街の心臓部の一つだ。屈強な戦士、ローブを纏った魔法使い、そして冬真のような軽装の探索者たちが、ひっきりなしに行き交っている。
「次の方、どうぞー」
冬真は呼ばれるままに換金所のカウンターへ進み、ショルダーポーチから今日の収穫物を手際よく取り出した。鑑定士の中年男性は、冬真の顔を見るなり、にこりと笑う。
「お、雪村君。毎度どうも」
「どうも」
「おー、今日もいいねえ。ジャイアントラットの尻尾の付け根肉、ちゃんとあるじゃない。これ、好きなフレンチのシェフがいるんだよ。ゴブリンの骨も、いい出汁が出そうだ」
鑑定士は手慣れた様子で素材を鑑定機にかけ、品質をチェックしていく。冬真のスキル『味の探求者』が見出した素材は、常に最高の状態で持ち込まれるため、市場価格より少しだけ色を付けて買い取ってもらえた。それが、彼のささやかな誇りだった。
「はい、合計で4,150円ね」
「ありがとうございます」
現金を受け取り、冬真は心の中でガッツポーズをした。よし。これなら、トッピングにチーズを乗せてもお釣りがくる。彼の足は、自然と浮き足立った。
ギルドの自動ドアが開き、六月の心地よい風が頬を撫でる。大通公園の噴水が陽光を反射してきらめいていた。最高のスープカレー日和だ。
そう思った、まさにその時だった。
「――あなた、少し時間いいかしら」
背後からかけられた声に、冬真の足が凍りついた。
温度の低い、よく通る声。昨夜、カレー屋で聞いた声。
そして、つい先ほど、ダンジョンでその痕跡を目の当たりにした、あの気配。
冬真がゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは、やはり銀色のショートカットの女だった。陽光の下で見ると、その髪はプラチナのように輝き、瞳はどこまでも澄んだ空色をしているのがわかった。しかし、その瞳が向ける視線は、まるで獲物をロックオンしたかのように、鋭く冬真を射抜いている。
「……何か、御用でしょうか」
「単刀直入に聞くわ。あなたのスキルは何?」
女――氷室凛は、挨拶も名乗りもなく、いきなり核心を突いてきた。
「さっき、ダンジョンであなたの痕跡を見た。モンスターの倒し方は平凡。でも、素材の回収だけが異常に的確。まるで、どこに何があるか、最初から全て見えているみたいだった。普通の探索者じゃないわね」
「さあ、なんのことでしょう」
冬真は、あくまで平静を装って答えた。面倒ごとは、回避するに限る。
「ただの勘ですよ。長年やってますから」
「勘、ですって?」
凛は、心底信じられないというように、細い眉をひそめた。
「その非効率な装備で、長年の勘だけで、あの動きができると? そのスキル、戦闘に応用すれば、あなたはもっと稼げるはずよ。C級に留まっているのが不思議なくらいだわ」
「いえ、稼ぎはこれで十分なんで」
冬真はきっぱりと言った。
「それに、今はそれどころじゃないんです。今日のスープカレーのトッピングを、ブロッコリーにするかチーズにするか、本気で悩んでまして」
「……は?」
凛の整った顔が、わずかに、しかしはっきりと固まった。彼女の思考が、完全に停止したのが見て取れた。
「スープ……カレー?」
「はい。これが俺にとっては一番重要な問題でして。だから、申し訳ないですけど、お話はまた今度……」
冬真がその場を離れようとすると、凛は一歩前に出て、彼の行く手を阻んだ。その空色の瞳が、苛立ちと、それ以上の強い好奇心に揺れている。
「……埒が明かないわね」
彼女は、ふぅ、と一つため息をついた。そして、有無を言わせぬ強い口調で、こう宣言した。
「口で聞くより、見た方が早いわ。あなたのスキル、この目で直接確認させてもらう」
彼女の言葉の意味を、冬真が理解するよりも早く。
凛は、決定的な一言を放った。
「明日、午前10時。狸小路の【南3西5】ゲート前。私と一時的にパーティーを組むのよ」
それは、提案でも、依頼でもなかった。
「これは、命令。いいわね?」
冬真の返事を待たず、凛はすっと踵を返した。そして、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、雑踏の中へと静かに消えていった。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす冬真と、大通公園の噴水の音だけだった。
彼の頭の中で、先ほどの言葉が木霊する。
(え……命令……?)
今夜のスープカレーのトッピングをどうするか、という彼の人生における最重要課題は、こうして、いともたやすく吹き飛ばされてしまったのだった。