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第33話:ただいま、我が聖地へ

 一週間後。

 札幌の街は、まるで長い夢から覚めたかのように、その本来の色と、活気と、そして何よりも、豊かな『味』を取り戻していた。

 あの『大通公園ダンジョン消失事件』は、「S級指定の汚染源を、ギルドに所属する二人の探索者が、奇跡的な方法で浄化した」とだけ、公式に発表された。二人の名前は、本人たちの強い希望により、伏せられたままだ。街の人々は、顔も知らない英雄たちの功績を称え、そして、すぐに、戻ってきた美味しい日常へと、その関心を移していった。


 金曜の夜。狸小路七丁目、路地裏。

 その店の前には、懐かしい、食欲をそそるスパイスの香りが、再び漂っていた。

 雪村冬真と氷室凛は、その香りを、まるで故郷の空気のように、深く、深く吸い込んだ。

 彼らは、もう、探索者の装備を身につけてはいなかった。ごく普通の、街に溶け込むような、普段着の姿。戦いを終えた戦士ではなく、ただ、お腹を空かせた、二人の若者として、その店の扉を開けた。


 店の中は、以前と変わらぬ、温かい活気に満ちていた。カウンター席は、常連客の笑い声で埋まり、厨房からは、店主・熊岸の、力強い鍋を振るう音が響いている。

 その音、その匂い、その空気。

 全てが、二人が命を懸けて守りたかった、日常そのものだった。


 熊岸は、二人の姿を認めると、ニヤリ、と、熊のような顔で笑った。


「おう、来たか」


 その声には、労いも、賞賛も、余計な言葉は、一切ない。ただ、いつもの、ぶっきらぼうな歓迎の響きだけがあった。それが、二人にとっては、何より心地よかった。


 いつもの席。カウンターの一番奥に、二人は並んで腰を下ろす。

 注文は、しない。する必要がない。

 熊岸は、すでに、二人のための調理を、始めていた。

 ジュワッ、と、素揚げの野菜が、油の中で、心地よい音を立てる。

 トントントン、と、リズミカルに、鶏肉に、隠し包丁が入る。

 そして、店の魂である、あの寸胴鍋。その中には、再び、豊かなモンスターの骨から取られた、深い、深い、琥珀色の出汁が、静かに、しかし力強く、命の息吹を放っていた。


 やがて。

 二人の前に、湯気の立つ、二つの土鍋が、そっと置かれた。

 それは、伝説の食材を使った、神々の料理ではない。

 いつも、彼らがここで食べていた、ごく普通の、チキンレッグと野菜のスープカレー。


 だが。

 その一杯は、これまで二人が食べてきた、どんなご馳走よりも、神々しく、そして、尊く輝いて見えた。

 スープの表面に浮かぶ、黄金色の鶏油の輝き。完璧な火入れで、皮はパリッと、肉はほろりと崩れる、チキンレッグ。そして、魂の出汁を、その身いっぱいに吸い込んだ、彩り豊かな野菜たち。


 熊岸は、腕を組み、ただ一言だけ、言った。


「食え」


 二人は、どちらからともなく、顔を見合わせた。

 その瞳には、この一週間の、いや、これまでの冒険の、全ての記憶が映っていた。

 絶望も、恐怖も、痛みも。

 そして、それを乗り越えた先にある、この、あまりにも穏やかで、かけがえのない、幸福な時間も。


 二人は、ゆっくりと、それぞれのスプーンを、手に取った。

 そして、声を揃えて。

 この世界への、この日常への、そして、隣にいる相棒への、全ての感謝を込めて、言った。


「「いただきます」」


 冬真が、スープを一口、口に運ぶ。

 その瞬間、彼の全身を、懐かしい、あの味が駆け巡った。スパイスの衝撃。そして、その奥から、幾重にもなって押し寄せる、旨味と、コクと、優しさの、完璧なハーモニー。


(……ああ、やっぱり)


 彼は、目を閉じた。


(これだ。俺が帰りたかった場所は、この味の中だ)


 凛もまた、柔らかなチキンを、そっと、口に運ぶ。

 その、いつもは、きつく結ばれていることの多い唇が、ふわりと、自然に、綻んだ。

 それは、戦士の休息ではなく、ただ、美味しいものを食べる、一人の少女の、無防備で、幸せそうな笑顔だった。


 しばらく、無言のまま、二人は、夢中でスプーンを動かした。

 やがて、半分ほど食べ進めたところで、冬真が、ふと、顔を上げて、呟いた。


「……やっぱり、これが一番ですね」


 その、心の底からの言葉に、凛は、こくり、と、愛おしそうに頷いた。


「……ええ、そうね」


 二人の視線が、カウンターの上で、優しく交差する。

 もう、多くの言葉は、必要なかった。


 彼らの危険な冒険は、終わった。

 だが、彼らの、美味しくて、かけがえのない日常は、これからも、ずっと、続いていく。

 温かい湯気と、幸せな喧騒の中で、二人は、また、次の一匙を、口へと運ぶのだった。




(了)

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