第32話:朝の光、街の味
轟音。振動。そして、終わりを告げる、巨大な断末魔のような地響き。
雪村冬真と氷室凛は、崩れ落ちてくる天井や、裂けていく床を、ただ、ひたすらに走り抜けていた。
「こっちです! 外の『味』がする!」
冬真は、もはや鑑定ウィンドウを見るまでもなく、その肌で、舌で、魂で、感じていた。生命力に満ちた、懐かしい、世界の味。それを、道標にして。
凛は、彼のナビゲートを、一瞬たりとも疑わなかった。彼女は、彼の前を走り、迫りくる瓦礫を、最後の力を振り絞った氷の魔法で弾き、道を切り拓く。
彼らの間には、もう、言葉は必要なかった。
互いの呼吸、互いの足音、その全てが、一つの生き物であるかのように、完璧に調和していた。
そして。
二人は、文字通り、転がり込むようにして、あのゲートを潜り抜けた。
背後で、ゲートが、これまで聞いたこともないような、重い、重い音を立てて、完全に閉ざされる。そして、その表面を走っていた禍々しい光が、すうっと、夜明けの光の中に溶けるように、消えた。
全てが、終わったのだ。
二人は、大通公園の、朝露に濡れた芝生の上に、倒れ込んでいた。
ぜい、ぜい、と、激しく肩で息をする。
空は、白み始めていた。東の空が、優しい、薔薇色に染まっている。
ひんやりとした、土の匂い。
夜明けを告げる、鳥のさえずり。
遠くで、街が動き出す、微かな喧騒。
その、あまりにも当たり前で、そして、失われかけていた全てが、祝福のように、二人の身体に降り注いでいく。
冬真は、ゆっくりと、深く、息を吸い込んだ。
ああ、と彼は思った。
空気に、味がする。世界に、味が戻ってきた。
その変化は、彼らだけが、感じていたわけではなかった。
札幌、という街全体が、長い悪夢から、ゆっくりと、目覚めようとしていた。
場外市場。一人の鮮魚店の店主が、死んだような目で眺めていたモンスターシュリンプの山が、突如、鮮やかな、生命力に満ちた深紅の色を取り戻すのを、目撃した。彼は、慌てて一尾を剥き、その身を口に放り込む。そして、その場に泣き崩れた。
「……甘い。ちゃんと、甘い味がする……!」
すすきのの路地裏。休業の札を出していたラーメン屋の店主が、寸胴鍋から立ち上る、信じられないほどに豊潤な、オーク骨の香りに気づき、厨房へと駆け込んでいった。
そして、冒険者ギルド。
メインモニターに表示されていた『汚染レベル:98%』という絶望的な数値が、凄まじい勢いで、ゼロへと向かっていく。その光景を見ていたギルド職員が、誰からともなく、歓声を上げた。その歓声は、一人、また一人と伝染し、やがて、街全体を揺るがすほどの、大歓声へと変わっていった。
「汚染、消失!」
「英雄たちが、やってくれたんだ!」
その頃、当の英雄たちは、大通公園の芝生の上で、大の字になって、空を眺めていた。
異変に気づいたダンジョンの警備員たちが、こちらへ向かってくるのが、遠くに見える。すぐに、自分たちは、この街の英雄として、人々の渦に、飲み込まれるのだろう。
だが、二人が求めていたのは、そんなものではなかった。
彼らは、顔を見合わせた。
その顔は、泥と、煤と、疲労で、ひどい有様だった。
だが、その瞳は、これまでにないほど、穏やかに、そして、誇らしげに、輝いていた。
そして、どちらからともなく、ふっと、笑みがこぼれた。
「……記者会見なんて、柄じゃないわね」
凛が、呆れたように言った。
「同感です」
冬真は、ゆっくりと、身体を起こした。そして、ぐぅ、と、正直な腹の虫の音を、高らかに鳴らした。
「俺……腹、減りました」
その一言が、全てだった。
二人は、頷き合った。
これから、彼らが向かうべき場所は、一つしかない。
街が、歓喜に沸き始める、その少し前。
英雄として祭り上げられる喧騒から、逃れるように。
二人は、朝焼けに染まる、まだ人のいない静かな裏通りを、ゆっくりと、しかし、確かな足取りで、歩き出した。
彼らが、本当に、心から、取り戻したかったものの、元へと。
ただいま、と、言うために。
彼らの聖地へと、帰るために。




