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第31話:勇気の一匙

「――我が祈りを、光の道と成せ。不浄を退け、ただ一人のために、聖域を拓け! 『守護者の回廊(ガーディアンコリドー)』!」


 氷室凛の、最後の魔力を振り絞った詠唱が、静かな聖堂に響き渡る。

 それは、もはや、彼女がこれまで使ってきた、鋭く、攻撃的な氷の魔法ではなかった。

 彼女の足元から、純白の、そしてどこまでも清らかな光が溢れ出し、雪村冬真が立つ場所から、広間の中央に浮かぶ『孤独の核』まで、一本の、光り輝く道と、その周りを覆うドーム状の壁を形成したのだ。

 灰色の瘴気が、その光の壁に触れ、浄化され、霧散していく。

 凛の顔は、血の気を失い、青白い。その身体は、立っているのがやっとというほどに、激しく震えている。だが、その瞳は、ただ、まっすぐに、光の回廊を進む、たった一人の相棒の背中だけを、見つめていた。


 冬真は、その光の道を踏みしめた。

 回廊の外では、世界の味を吸い尽くさんとする、絶望的な瘴気が渦巻いている。だが、一歩、内側に入ったこの場所は、まるで嵐の目の中のように、穏やかで、静かだった。

 彼は、巨大な灰色の心臓へと、歩みを進める。

 それは、敵ではなかった。

 それは、悪ではなかった。

 ただ、永い、永い時間の中で、忘れられ、独りぼっちで、お腹を空かせた、可哀そうな存在。

 冬真は、その巨大な核を前に、まるで、道に迷った子供に、温かいスープを差し出すかのように、深い、慈しみの感情を覚えていた。


 彼は、核の目の前で、立ち止まった。

 そして、熊岸から託された、ガラスの小瓶を、静かに取り出す。

 蓋を開けた瞬間、凝縮されていた、あまりにも豊潤な香りが、光の回廊の中に、ふわりと解き放たれた。それは、手稲の森の匂い。雪解け水の清らかさ。力強い生命の息吹。そして、二人の冒険の記憶そのもの。

 小瓶の中、真珠のように輝く『霜降りグリズリーの脂』が、自らが放つ黄金色の光で、冬真の手元を、温かく照らしていた。


 彼は、その一粒を、スプーンの上に、そっと取り出した。

 そして、投げるでもなく、叩きつけるでもなく。

 まるで、最高の料理に、最後の一筆となるソースを垂らす、熟練のシェフのように。

 その、黄金色の光の粒を乗せたスプーンを、巨大な灰色の心臓の、その表面に、そっと、差し込んだ。


 ――その、瞬間だった。


 世界から、音が消えた。

 一秒にも、永遠にも感じられる、完全な静寂。


 次の瞬間、冬真が脂を置いた、その一点から、凄まじい黄金色の光が、爆発した。

 それは、破壊の光ではない。

 生命と、歓喜と、そして、忘れられていた『味』の記憶そのものが、奔流となって、灰色の心臓の、隅々まで、駆け巡っていく。

 ひび割れていた水晶の表面が、みるみるうちに修復され、濁っていた内部からは、淀みが消えていく。灰色だった核は、まるで、生まれたての太陽のように、温かく、そして力強い、黄金色の輝きを放ち始めた。


 冬真の『味の探求者』のウィンドウが、彼の視界を埋め尽くす。

 だが、そこに、文字はなかった。

 ただ、無数のイメージが、流れ込んでくる。

 夏の日の、太陽の匂い。

 冬の夜の、焚き火の暖かさ。

 誰かと食卓を囲む、笑い声。

 初めて、美味しいものを口にした時の、あの、胸が震えるような感動。


『孤独の核』は、思い出していたのだ。

 自分が、何のために、ここにいるのかを。

 世界が、どれほど、素晴らしい味に満ちていたのかを。


 やがて、核から放たれていた灰色の瘴気は、完全に、その姿を消した。そして、浄化された黄金の光が、波のように、広間全体へと広がっていく。

 凛が展開していた光の回廊も、その役目を終え、光の粒子となって、穏やかに消えていった。


「……やった」


 凛が、その場にへたり込みながら、呟いた。


「やったんだ……俺たち……」


 冬真もまた、安堵から、その場に座り込んでいた。


 二人が、勝利の余韻に浸っていた、その時だった。


 ゴゴゴゴゴゴゴ…………


 広間全体が、低い唸り声を上げて、激しく揺れ始めた。

 安定を取り戻した核が、その巨大なエネルギーを再調整する過程で、この古代のダンジョンそのものが、構造を維持できなくなっていたのだ。

 天井から、巨大な岩塊が、いくつも降り注いでくる。壁には、大きな亀裂が走り、この聖堂が、崩壊を始めていることを告げていた。


「雪村くん!」


 凛の、切羽詰まった声が響く。


「この場所が、崩れる! 早く、逃げるわよ!」


 静寂は、破られた。

 究極の饗宴の後に待っていたのは、あまりにも性急な、現実への帰還だった。

 二人は、顔を見合わせると、最後の力を振り絞り、崩れ落ちていく、色のない迷宮を、出口目指して、駆け出した。


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