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第30話:最後の晩餐、あるいは最初の饗宴

「待って! 氷室さん、違うんだ! こいつは、敵じゃない……! こいつ……ただ、腹を空かせて、泣いているだけなんだ!」


 雪村冬真の、悲痛な叫びが、聖堂のような広間に木霊した。

 氷室凛の、全魔力を込めた一撃が、放たれる寸前で、ぴたりと止まる。渦巻いていた氷の嵐が、行き場を失って、彼女の杖の周りで、不満げに唸りを上げていた。


「……何を、言っているの、あなたは」


 凛は、冬真を振り払いながら、混乱した声で言った。


「こいつが、街の味を、活力を、全てを奪っている元凶なのよ! これを破壊しなければ、何も終わらない!」

「だから、違うんです!」


 冬真は、彼女の前に立ちふさがるようにして、必死に説明した。


「こいつは、古代の、環境を調律するためのシステムなんだ! 本来は、豊かな『味』や『生命力』をエネルギーにして、この土地を浄化するはずだった。でも、永い時間の中で、そのエネルギーの供給が絶たれて、飢えて、壊れて、自分の役目さえも忘れちまったんだ!」


 彼は、目の前の、巨大で、悲しげに脈動する灰色の心臓を指さした。


「攻撃しても、意味がない。お腹を空かせた赤ちゃんを、殴るようなものだ。もっと、激しく泣き叫んで、もっと、無差別に、街の味を吸い上げるだけだ!」


 凛は、言葉を失った。彼の言葉は、あまりにも荒唐無稽で、にわかには信じがたい。

 だが、彼女は、もう一度、巨大な核を見た。

 冬真の言葉というフィルターを通して見ると、その灰色の脈動は、もはや、不気味な脅威には見えなかった。それは、助けを求める、か細い産声のようにも、感じられた。

 彼女は、思い出す。手稲山で、彼のスキルが、何度も、自分の常識を超えた『正解』を導き出したことを。


「……じゃあ、どうしろって言うのよ」


 凛の声から、怒りの色は消えていた。そこにあるのは、ただ、純粋な、途方に暮れた響きだけだった。


「決まってます」


 冬真の声は、穏やかだったが、その響きには、一点の曇りもなかった。


「料理人の仕事は、腹を空かせた客を、満腹にさせることだ。こいつは、俺が今まで出会った中で、最高に、腹を空かせた、お客さんだ」


 彼は、そう言うと、胸の、一番内側のポケットに、大切にしまっていたものを取り出した。

 熊岸から託された、小さな、ガラスの小瓶。

 その中で、真珠のように白く輝く、球体の脂が、周囲の灰色の光を弾き返し、自らが光源であるかのように、温かい、黄金色の光を放っていた。


「熊岸さんは、これを『勇気の一匙』だって言った」


 冬真は、その小瓶を、祈るように両手で包み込んだ。


「でも、これは、ただの勇気じゃない。手稲の森の記憶。嵐の夜の、俺たちの覚悟。そして、あの最高のスープカレーの、味の記憶。この世界は、こんなにも美味しくて、素晴らしいんだっていう、全ての『情報』が、この一粒に、詰まってる」


 凛は、その小さな光の粒と、巨大な灰色の心臓を、交互に見比べた。

 あまりにも、無謀。あまりにも、馬鹿げている。

 だが、その、あまりにも冬真らしい、突拍子もない作戦に、彼女は、なぜか、わずかな可能性を感じていた。

 それは、力と、効率だけを信じてきた自分には、決して辿り着くことのできない、答えかもしれなかった。


「……どうやって、あれに届けるの」


 凛が、静かに問うた。


「この瘴気だわ。近づく前に、この小瓶の中身も、ただの脂の塊にされてしまう」

「だから、氷室さんの力が必要なんです」


 冬真は、彼女の目を、まっすぐに見つめた。そこには、絶対的な信頼が宿っていた。


「俺が、こいつに、この『最後の一皿』をサーブするまで。ほんの数秒でいい。瘴気から俺を守る、清浄な『道』を作ってほしいんです」


 その言葉を聞いた瞬間、凛の中で、最後の迷いが、消えた。

 彼女がずっと求めてきた、本当の強さ。それは、一人で全てを破壊することではなかった。

 たった一人の、信じられる相棒のために、そのたった一つの道を、切り拓く力。

 それこそが、今の自分にしかできない、最高の魔法だった。


「……本当に、馬鹿なんだから、あなたは」


 凛は、そう言って、ふわりと、笑った。

 それは、彼女が、このダンジョンに入ってから、初めて見せた、心からの笑顔だった。


「わかったわ。やりましょう」


 彼女は、白銀の杖を、再び、構えた。

 だが、その切っ先が向けられるのは、もはや、敵ではない。

 ただ一人、愛すべき相棒を守るため。


「シェフを、一人で危険な厨房に立たせるわけにはいかないものね」


 彼女が、新たな詠唱を始める。それは、攻撃の呪文ではない。守護と、浄化の、祈りの呪文。

 彼女の周りに、白銀の光が集まり始める。

 冬真は、その光に守られながら、小瓶を握りしめ、巨大な『孤独の核』へと、静かに、一歩を踏み出した。

 最後の晩餐が、あるいは、最初の饗宴が、今、始まろうとしていた。


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