第2話:ダンジョンは台所である
朝、雪村冬真は札幌市豊平区平岸にある、家賃四万円の風呂なしアパート「メゾン白樺」の、軋むベッドの上で目を覚ました。六月の太陽が、遮光性の低いカーテンの隙間から容赦なく差し込んでくる。昨夜のスープカレーがもたらした幸福感は、まだ身体の芯に微かな熱として残っていたが、胃袋は正直だった。ぐぅ、と腹の虫が鳴き、彼を現実へと引き戻す。
昨夜、店で会った女のことを、一瞬だけ思い出した。冬の匂いを纏った、静かな目の女。
だが、その記憶はすぐに別の、もっと切実な思考に上書きされた。
(……今日のスープカレー代、どうしようか)
それが、彼の朝一番の議題だった。トーストを一枚かじり、インスタントコーヒーを胃に流し込むと、冬真は手早く探索の準備を始めた。使い古された装備を身につけ、ポーチに回復ポーション(一番安いもの)を二本だけ差し込む。玄関のドアを開けると、少しひんやりとした、しかし力強い初夏の日差しが彼を出迎えた。
地下鉄に揺られて大通公園を過ぎ、狸小路のアーケードへ。観光客や買い物客で賑わう日常の風景の中、冬真はごく自然に、昨夜と同じ雑居ビルの裏口へと向かう。彼にとって、ダンジョンへ行くことは、スーパーへ買い物に行くのと大差ない、生活の一部だった。
『ダンジョン・ゲート【南3西5】初級』
プレートが示す通り、ここは初心者が日銭を稼ぐための、いわば入門用のダンジョンだ。鉄扉にギルドカードをかざすと、重い音を立てて道が開く。ひんやりとした、湿った空気が中から流れ出してきた。外の喧騒が嘘のように遠ざかり、世界から色が一つ、また一つと抜け落ちていく。
ダンジョンの中は、薄暗い石造りの通路が続いているだけだ。壁には苔が生え、天井からは時折、水滴が落ちてきて首筋を濡らした。冬真はランタンの明かりを頼りに、慣れた足取りで奥へと進む。しばらく歩くと、前方の暗闇から、カサカサという複数の足音が聞こえてきた。
冬真の視界の右端に、ふっと半透明のウィンドウが音もなく開く。彼にしか見えない、ユニークスキル『味の探求者』の鑑定結果だ。
[名称]ジャイアントラット ×3
[ランク]G級モンスター
[状態]良好。空腹でやや攻撃的。
[可食部位]腿肉、尻尾の付け根の肉。
[推奨調理法]腿肉は挽肉にしてハンバーグに。尻尾付け根は希少部位。塩胡椒でシンプルに焼くと絶品。
[市場価値]一匹あたり約600円(希少部位込みで850円)
[特記事項]特になし。
(……よし、上々)
冬真は腰のホルスターから、短い剣を抜き放った。戦闘は得意ではない。むしろ、ひどく苦手だ。だから、彼は戦わない。彼は、ただ『調理』するだけだ。
三匹のネズミが、一斉に飛びかかってくる。冬真はその全てを最小限の動きでいなし、すれ違いざま、的確に急所――『味の探身者』が示す、肉の価値を最も損なわないポイント――だけを的確に突いた。悲鳴を上げる間もなく、三匹のジャイアントラットは床に崩れ落ちる。
冬真は屈み込むと、慣れた手つきで解体用ナイフを握った。刃渡り十五センチ。鋼と炭素鋼を幾重にも重ねて打たれた、熊岸からの払い下げだ。彼は肉屋が牛を捌くように、あるいは魚屋がマグロを解体するように、敬意をもってナイフを入れる。その手つきに、戦闘後の高揚や、モンスターへの憎悪といった感情は一切ない。あるのは、食材に対する感謝と、それを最高の状態で持ち帰るための、職人的な正確さだけだった。
「腿肉は二つ。尻尾の付け根は三つ。よし」
手際よく素材をポーチに収め、彼はさらに奥へと進む。
彼にとって、ダンジョンとは巨大な台所であり、自給自足のためのスーパーマーケットだった。モンスターは、動く肉であり、歩く香辛料だ。その価値は強さや凶暴さで決まるのではない。いかに美味しく、いかに高く売れるかで決まる。それが、冬真の世界の理だった。
次に現れたのは、二体のゴブリンだった。
[名称]ゴブリン ×2
[ランク]F級モンスター
[状態]極めて良好。非常に好戦的。
[可食部位]全身の肉。骨。
[推奨調理法]腿肉は筋張っているが、長時間煮込むと極上の出汁が出る。骨も良質なスープストック向き。皮は鞣せば丈夫な革製品に。
[市場価値]肉と骨で1,200円。皮は専門業者へ売れば+500円。
[特記事項]棍棒による打撲に注意。肉を傷つけないよう、頭部への打撃が望ましい。
(スープストック、か。いい響きだ)
冬真はゴブリンたちの棍棒をかいくぐり、鑑定結果の指示通り、的確に頭部を打ち据えて動きを止めた。そしてまた、静かな解体作業が始まる。
その日の稼ぎが、今日の目標であるスープカレー代(トッピング込みで1,500円)と明日の生活費(約2,000円)を合わせた3,500円を超えたあたりで、彼はダンジョンの中層エリアに差し掛かっていた。
ふと、空気が変わったことに気づく。
ひんやりとしている。先ほどまでの、じっとりとした湿気を含んだ空気とは明らかに違う。まるで、真冬の屋外にでもいるかのような、澄んだ冷気。
通路を一つ曲がった先、その光景に冬真は思わず足を止めた。
壁という壁、天井までもが、無数の鋭い氷柱によってハリネズミのようになっていた。床には砕けた氷の破片がキラキラと散らばり、ランタンの光を乱反射させている。まるで、強力なブリザードがこの通路だけを通り過ぎていったかのようだった。
そして、壁際には一体のゴブリンが、まるで芸術品のように凍りついていた。驚愕の表情のまま、その身体は美しい半透明の氷に閉じ込められている。よく見ると、その胴体は、まるで外科手術のように鋭利な平面で切断されていた。
冬真はゴクリと喉を鳴らし、おそるおそる『味の探求者』でその残骸を鑑定する。
[名称]ゴブリン(残骸)
[ランク]F級モンスター
[状態]凍結・死亡(切断)
[可食部位]汚染のため、なし。
[市場価値]なし。
[特記事-項]魔力の残滓あり。極めて高純度の氷結系スキルによるもの。術者の魔法制御レベルは計測不能。
(熊岸さんの言ってた噂、これか……)
ただの噂話が、目の前の現実として突きつけられる。計測不能、というスキル評価に、冬真は背筋がぞくりとするのを感じた。こんな芸当ができる探索者が、自分と同じダンジョンにいる。
一体、どんな人間なんだ?
そう思った、その時だった。
通路の、さらに奥。暗闇の向こうから、微かに音が聞こえた。
キィン、と。ガラスが砕けるような、鋭い音。
そして、人の気配。
冬真は咄嗟に、岩陰に身を隠した。
心臓が、ドクン、と大きく脈打つ。それは、モンスターと対峙する時とは質の違う、人間に対する純粋な緊張感だった。
彼は息を殺し、通路の奥を窺う。
一体、誰が、あんな途轍もないことをしたのか。
その正体を、この目で見てみたい。そんな、ほんの少しの好奇心に駆られて。