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第27話:二人の決意

 氷室凛は、一人、薄暗い自室の静寂の中に座っていた。

 雪村冬真が去って行った後、彼女は、まるで糸が切れたかのように、その場に崩れ落ちていた。


(行かせては、ダメだった)


 後悔が、胸を締め付ける。


(あの人も、きっと、いなくなる。私のせいで。また、私だけが、残される)


 過去の悪夢が、嵐のように彼女の心をかき乱す。A級パーティーの敗北。リーダーの最後の顔。そして、冬真の、あのあまりにも無謀で、穏やかな背中。全てが一つになって、彼女を絶望の底へと引きずり込んでいく。


 彼女は、力なく立ち上がり、部屋をさまよった。そして、棚の上に無造作に置かれた、一本の新しい杖が、目に留まった。白銀に輝く、美しいワンド。グリズリーを倒した報酬で、冬真と一緒に、買い揃えたものだ。

 その杖に、そっと触れる。

 ひんやりとした感触が、指先から伝わってきた。


 ――その時、彼女の脳裏に、いくつもの記憶が蘇った。

 手稲の森で、焚き火を囲んで食べた、温かいオークの肉の味。

 絶体絶命の窮地で、自分の魔法と、彼の知恵が、奇跡を呼び起こした瞬間。

 そして、嵐の夜のテントの中、自分の、誰にも言えなかった弱さを、ただ、静かに受け止めてくれた、彼の温かい眼差し。


『生きろ』


 かつてのリーダーが、最後に遺した言葉。

 凛は、その言葉を、ずっと『一人で生き延びろ』という罰として、受け止めてきた。

 だが、違ったのかもしれない。

『生きろ』とは、『前を向いて、誰かと共に、生き続けろ』という、祈りだったのではないか。

 本当の強さとは、一人で全てを背負うことじゃない。弱さを認め合い、互いの、違う形の『武器』を信じ合うこと。

 冬真は、それを、言葉ではなく、行動で、料理で、示してくれていた。


「……馬鹿ね、私」


 凛の瞳に、再び、光が灯った。

 彼女は、白銀の杖を、強く、強く握りしめた。そして、アパートのドアを蹴破るようにして、駆け出した。

 向かう先は、一つ。

 世界で一番、クレイジーで、そして、誰よりも信頼できる、たった一人の相棒の元へ。




 その頃、冬真は、夕暮れに染まる大通公園の、封鎖ゲートの前に立っていた。

 ギルドの警備員が、険しい表情で彼の行く手を阻む。


「ここから先は、S級指定の危険区域だ。許可なく立ち入ることは、誰であろうと認められない」

「お願いします。通してください」

「ダメだ。規則は規則だ。命が惜しければ、帰りなさい、坊や」


 問答は、平行線を辿っていた。


 その、膠着した空気を破ったのは、聞き慣れた、野太い声だった。


「――通してやれ」


 振り返ると、そこに立っていたのは、『カレーの鉄人 アイアン・カリー』の店主、熊岸だった。彼は、いつものコックコートではなく、ラフな私服姿だった。


「熊さん……」

「お前、本気なんだな」


 熊岸は、冬真の目を、じっと見つめて言った。その目には、彼の覚悟のほどを、全て見抜いているような、深い光が宿っていた。

 警備員が、戸惑ったように熊岸を見る。熊岸は、この界隈では有名な、元A級探索者だった。

 熊岸は、警備員を一瞥すると、ポケットから、小さなガラスの小瓶を取り出した。


 その小瓶の中には、真珠のように白く輝く、球体の脂が、一つだけ、封じ込められていた。それは、あの『霜降りグリズリー』の、全ての旨味と魔力が凝縮された、究極の部位だった。


「こいつを持ってけ」


 熊岸は、その小瓶を、冬真の手に握らせた。


「あの瘴気は、味も、生命力も、奪っちまうんだろ。だったら、この世界で一番、凝縮された『味』と『生命力』を持っていくんだな。それが、お守りになるか、武器になるか、俺にはわからねえ。だがな、冬真」


 熊岸は、冬真の肩を、その分厚い手で、強く掴んだ。


「勇気の一匙ひとさじだ。無駄にすんじゃねえぞ」


 その、不器用で、しかし、誰よりも温かい励ましに、冬真は、ただ、深く、深く頷いた。


 彼が、再び、ゲートへと向き直った、その時だった。


「――この馬鹿」


 背後から、息を切らした声が、聞こえた。

 振り返ると、そこに、凛が立っていた。

 その瞳には、もう、絶望の色はない。嵐が過ぎ去った後の空のように、澄み切った、強い意志の光が宿っていた。


 彼女は、冬真の隣に、当たり前のように並び立つ。


「本当に、一人で行かせると思った?」


 その声には、呆れと、そして、どうしようもないというような、愛情が滲んでいた。


「私の相棒は、世界一、クレイジーな料理人なんだから。シェフを、一人で厨房に立たせるわけにはいかないわよ」


 凛は、白銀の杖を握りしめた、左手を、冬真へと差し出した。

 それは、もう、彼を制止するための手ではなかった。

 共に、行くための手だった。


「私たちの『厨房』は、あの中なんでしょ」


 彼女は、固く閉ざされたゲートを、まっすぐに見据えた。


「さあ、行きましょう。街の味を、取り戻しに」


 その言葉に、冬真は、全ての覚悟が決まった。

 彼は、凛の手を、強く、握り返した。


 勇気の一匙を、胸に抱いて。

 世界でたった一人の相棒と、共に。

 二人は、札幌の味を取り戻すための、あまりにも無謀で、しかし、希望に満ちた戦いへと、その一歩を踏み出した。


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