第26話:スプーン一本の突撃
雪村冬真は、大通公園の封鎖線を後にして、ある場所へと向かっていた。それは、ダンジョンではない。彼の、たった一人の相棒が住む、近代的なマンションだった。
インターホンを鳴らすと、長い、長い沈黙が続いた。もう一度、押す。諦めて帰ろうかと、彼が踵を返しかけた、その時。カチャリ、と無機質な音がして、ドアが、ほんの数センチだけ開いた。
隙間から覗いた氷室凛の顔は、冬真が今まで見た中で、最も弱々しく、そして憔悴していた。血の気のない唇。光を失った、空色の瞳。部屋の中は、カーテンが引かれ、真昼間だというのに、薄暗い。
「……何の用?」
その声は、壁の向こうから聞こえるように、ひどく、か細かった。
「俺、行きます」
冬真は、単刀直入に言った。
「大通の、地下ダンジョンへ」
その瞬間、凛の瞳に、激しい光が宿った。それは、怒りと、そして、それ以上に深い、恐怖の色だった。
「あなた、正気なの!?」
ドアが、勢いよく開けられる。
「見たでしょ! この街で最強のA級パーティーが、何もできずに、逃げ帰ってきたのよ! あなたはC級!私ですら、あの瘴気の中では……! 十歩も進めずに、殺されるだけだわ!」
彼女は、冬真の胸倉を掴まんばかりの勢いで、叫んだ。
だが、冬真は、静かだった。
「だから、ですよ。氷室さん」
彼の声は、穏やかだったが、その芯には、決して揺らがない、鋼のような意志があった。
「あれは、力の戦いじゃない。力で挑めば、英雄たちと同じ結果になる。あの瘴気は、魔力や、闘気や、探索者の『力』そのものを、喰らうものだから」
「だったら、どうしろって言うのよ!」
「俺のスキルは、違います」
冬真は、凛の目を、まっすぐに見つめた。
「俺のスキルは、パワーじゃない。パーセプション(知覚)だ。価値を、本質を、そして……『味』を見抜く力だ。誰もが見えなかったものが、俺には見えるかもしれない。誰もが気づかなかった道が、俺になら、見つけられるかもしれない」
彼は、続ける。
「あの瘴気の、『味』そのものを、鑑定できれば……あるいは」
「……馬鹿なこと言わないで!」
凛は、彼の言葉を、悲鳴のように遮った。
「それは、ただの希望的観測よ! あなたは、死ぬわ! あの時の、みんなみたいに……!」
彼女の言葉が、途切れる。その瞳が、過去の悪夢に囚われ、恐怖に濡れていた。
「私は、もう……誰も失うのは、見たくない……!」
それは、彼女の魂からの叫びだった。
その悲痛な叫びを前に、冬真は、胸が締め付けられるのを感じた。
説得は、不可能だ。彼女の恐怖は、理屈で乗り越えられるものではない。
冬真は、そっと、彼女から一歩、距離を取った。そして、静かに、頭を下げた。
「ごめんなさい、氷室さん。でも、俺は、行かなきゃならない」
彼は、そう言うと、彼女に背を向けた。
「待って! 行かせないわ!」
凛が、彼の腕を掴もうと手を伸ばす。だが、その手には、もう、かつての力はなかった。トラウマに心を縛られた彼女は、ひどく、弱々しかった。
冬真は、ドアの前で、立ち止まった。
しかし、振り返ることはなかった。
「俺は、戦いに行くんじゃないんです」
その声は、どこまでも、穏やかだった。
「料理人が、自分の厨房で、食材と戦ったりはしないでしょ?」
彼は、ほんの少しだけ、間を置いた。
そして、この世界で、彼にしか言えない、あまりにも奇妙で、あまりにも真っ直ぐな、決意の言葉を告げた。
「俺は、それを『味わい』に行くんです」
その言葉を残し、冬真は、マンションの薄暗い廊下へと、歩き出した。
開け放たれたドアの前で、氷室凛は、ただ、立ち尽くしていた。
彼の、最後の言葉の意味を、理解しようとするかのように。
その、あまりにも馬鹿げていて、あまりにも彼らしい、スプーン一本での突撃宣言に、彼女は、ただ、唇を震わせることしかできなかった。




