表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/34

第26話:スプーン一本の突撃

 雪村冬真は、大通公園の封鎖線を後にして、ある場所へと向かっていた。それは、ダンジョンではない。彼の、たった一人の相棒が住む、近代的なマンションだった。

 インターホンを鳴らすと、長い、長い沈黙が続いた。もう一度、押す。諦めて帰ろうかと、彼が踵を返しかけた、その時。カチャリ、と無機質な音がして、ドアが、ほんの数センチだけ開いた。


 隙間から覗いた氷室凛の顔は、冬真が今まで見た中で、最も弱々しく、そして憔悴していた。血の気のない唇。光を失った、空色の瞳。部屋の中は、カーテンが引かれ、真昼間だというのに、薄暗い。


「……何の用?」


 その声は、壁の向こうから聞こえるように、ひどく、か細かった。


「俺、行きます」


 冬真は、単刀直入に言った。


「大通の、地下ダンジョンへ」


 その瞬間、凛の瞳に、激しい光が宿った。それは、怒りと、そして、それ以上に深い、恐怖の色だった。


「あなた、正気なの!?」


 ドアが、勢いよく開けられる。


「見たでしょ! この街で最強のA級パーティーが、何もできずに、逃げ帰ってきたのよ! あなたはC級!私ですら、あの瘴気の中では……! 十歩も進めずに、殺されるだけだわ!」


 彼女は、冬真の胸倉を掴まんばかりの勢いで、叫んだ。

 だが、冬真は、静かだった。


「だから、ですよ。氷室さん」


 彼の声は、穏やかだったが、その芯には、決して揺らがない、鋼のような意志があった。


「あれは、力の戦いじゃない。力で挑めば、英雄たちと同じ結果になる。あの瘴気は、魔力や、闘気や、探索者の『力』そのものを、喰らうものだから」

「だったら、どうしろって言うのよ!」

「俺のスキルは、違います」


 冬真は、凛の目を、まっすぐに見つめた。


「俺のスキルは、パワーじゃない。パーセプション(知覚)だ。価値を、本質を、そして……『味』を見抜く力だ。誰もが見えなかったものが、俺には見えるかもしれない。誰もが気づかなかった道が、俺になら、見つけられるかもしれない」


 彼は、続ける。


「あの瘴気の、『味』そのものを、鑑定できれば……あるいは」

「……馬鹿なこと言わないで!」


 凛は、彼の言葉を、悲鳴のように遮った。


「それは、ただの希望的観測よ! あなたは、死ぬわ! あの時の、みんなみたいに……!」


 彼女の言葉が、途切れる。その瞳が、過去の悪夢に囚われ、恐怖に濡れていた。


「私は、もう……誰も失うのは、見たくない……!」


 それは、彼女の魂からの叫びだった。

 その悲痛な叫びを前に、冬真は、胸が締め付けられるのを感じた。

 説得は、不可能だ。彼女の恐怖は、理屈で乗り越えられるものではない。

 冬真は、そっと、彼女から一歩、距離を取った。そして、静かに、頭を下げた。


「ごめんなさい、氷室さん。でも、俺は、行かなきゃならない」


 彼は、そう言うと、彼女に背を向けた。


「待って! 行かせないわ!」


 凛が、彼の腕を掴もうと手を伸ばす。だが、その手には、もう、かつての力はなかった。トラウマに心を縛られた彼女は、ひどく、弱々しかった。


 冬真は、ドアの前で、立ち止まった。

 しかし、振り返ることはなかった。


「俺は、戦いに行くんじゃないんです」


 その声は、どこまでも、穏やかだった。


「料理人が、自分の厨房で、食材と戦ったりはしないでしょ?」


 彼は、ほんの少しだけ、間を置いた。

 そして、この世界で、彼にしか言えない、あまりにも奇妙で、あまりにも真っ直ぐな、決意の言葉を告げた。


「俺は、それを『味わい』に行くんです」


 その言葉を残し、冬真は、マンションの薄暗い廊下へと、歩き出した。

 開け放たれたドアの前で、氷室凛は、ただ、立ち尽くしていた。

 彼の、最後の言葉の意味を、理解しようとするかのように。

 その、あまりにも馬鹿げていて、あまりにも彼らしい、スプーン一本での突撃宣言に、彼女は、ただ、唇を震わせることしかできなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ