第25話:俺の聖地(サンクチュアリ)
英雄が敗北した次の日、札幌の街は、静かな絶望に包まれていた。
冒険者ギルドは、まるで葬儀場のように静まり返っていた。いつもは酒を酌み交わし、武勇伝を語り合う探索者たちが、今はただ、無言で、更新されることのないクエストボードを眺めている。彼らの生活の糧であり、誇りであったダンジョンが、今や、得体の知れない脅威へと姿を変えてしまったのだ。
その重い空気は、ギルドの外にも、じわじわと広がっていた。
すすきののネオンは、いつもと同じように輝いているはずなのに、どこか空々しく、色褪せて見える。人々の顔からは、活気が消え、その会話からは、この街が誇る『食』の話題が、めっきりと減っていた。
街全体が、まるで魂を抜かれたかのように、ゆっくりと、しかし確実に、その彩度を失っていく。
雪村冬真は、その色のない街を、当てもなく歩いていた。
氷室凛とは、昨日の敗北の後から、連絡が取れていない。彼女の部屋を訪ねても、返事はなかった。冬真には、彼女が今、一人きりで、過去の悪夢と戦っているであろうことが、痛いほどわかった。だが、今の自分に、彼女にかけるべき言葉が見つからなかった。
彼の足は、自然と、思い出の場所を巡っていた。
手稲山への挑戦を決めた、ギルドの談話室。
新しい装備を買い揃えた、札幌駅の商業施設。
そして、あの奇跡のスープカレーを分かち合った、狸小路の路地裏。
その全てが、つい最近のことなのに、もう何年も前の、遠い記憶のように感じられた。
楽しかった。満たされていた。
ただ「美味しい」という、ささやかな感情を分かち合うだけで、世界は、こんなにも輝いて見えていた。
その輝きが、今、失われようとしている。
金のためじゃない。名誉のためでもない。究極の味を求める、冒険心でさえない。
冬真の心の中には、もっと、ずっとシンプルで、そして切実な感情が、静かに形作られつつあった。
やがて、彼の足は、吸い寄せられるように、あの店の前にたどり着いていた。
『カレーの鉄人 アイアン・カリー』
店の扉には、「営業中」の札がかかっていたが、窓から漏れる光は、いつもよりずっと、弱々しく見えた。
冬真が中へ入ると、客は、誰もいなかった。
カウンターの内側で、店主の熊岸が、黙々と、空のグラスを磨いていた。その広い背中が、ひどく寂しげに見えた。
「……お客さん、いないんですね」
冬真が、ぽつりと言うと、熊岸は、手を止めずに応えた。
「……魂の抜けちまったスープを、客に出すわけにはいかねぇからな。今日は、もう店じまいだ」
その声には、職人としての、深い無念が滲んでいた。
熊岸は、磨き上げたグラスを棚に戻すと、静かに冬真の方を向いた。
「……嬢ちゃんは、どうしてる」
「わかりません。昨日から、連絡が……」
「そうか……無理もねえ。あれを見ちまったんじゃな……」
熊岸は、ふぅ、と重いため息をついた。そして、その鋭い目で、冬真の目を、まっすぐに見つめた。
「で、お前はどうするんだ、雪村冬真」
その、問いかけ。
それは、冬真が、この数時間、ずっと自分自身に問い続けていたことだった。
冬真は、誰もいない店内を、ゆっくりと見回した。
自分がいつも座る、カウンターの隅の席。
壁に貼られた、色褪せたポスター。
棚に並んだ、何十種類ものスパイスの瓶。
この店の、全て。
ここは、ただの飲食店じゃない。腹を満たすだけの場所じゃない。
ここは、俺の聖地だ。俺が、俺でいられる、たった一つの場所だ。
その聖地が、今、静かに死のうとしている。
自分の、たった一人の相棒が、絶望の中で泣いている。
ならば、答えは、もう決まっていた。
「……俺、行かなきゃならないみたいです」
冬真の声は、静かだったが、その響きには、もう、何の迷いもなかった。
どこへ、とは言わなかった。言う必要もなかった。
熊岸は、ただ、黙って、深く頷いた。
「……そうか」
夕暮れに染まる、大通公園。
初夏の爽やかな風が、静かに芝生を揺らしている。だが、公園の中心部は、ものものしいギルドのバリケードで固く封鎖され、重装備の警備員が、険しい表情で周囲を警戒していた。
その、封鎖線の前。
雪村冬真は、一人で、静かに立っていた。
彼の視線は、警備員の制止を通り越し、その奥にある、巨大な地下ダンジョンのゲートへと、まっすぐに注がれている。
もう、冒険のためじゃない。
究極の味のためでもない。
俺の好きな店が、潰れそうになっている。
俺の相棒が、泣いている。
だから、俺は行く。
理由は、ただ、それだけだ。
冬真は、その一歩を、静かに、しかし、確かな意志を持って、踏み出した。




