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第23話:魂の抜けたスープ

 異変は、もはや噂や市場の混乱といったレベルではなかった。それは、札幌という街の、文化そのものを蝕む、静かな毒となっていた。


 すすきのの名店通り。行列が絶えなかった、ダンジョン産の豚骨ならぬ『オーク骨』を看板にしたラーメン屋が、「スープ調整のため、当面休業」の札を出す。

 円山裏参道のお洒落なフレンチレストランでは、スペシャリテだった『大蝙蝠の翼のコンフィ』が、メニューから黒い線で消された。シェフは「今の素材では、お客様に嘘をつくことになる」と、悔しそうに語った。

 テレビでは、連日、専門家たちがこの『ダンジョン食材品質低下問題』について議論を繰り広げ、夏の観光の目玉である『札幌ダンジョングルメフェア』の中止が、現実味を帯びて報道され始めていた。


 街から、色が、そして味が、一つずつ消えていく。

 その、あまりにも重い現実から逃れるように、雪村冬真の足は、自然と、彼の聖地へと向かっていた。

 狸小路七丁目の、路地裏。

『カレーの鉄人 アイアン・カリー』

 ここだけは、まだ、あの味が残っているはずだ。そう信じたかった。


 店の扉を開けると、いつもと違う、重く沈んだ空気が、彼を出迎えた。

 カウンターには、数人の常連客。だが、彼らの口数は少なく、ただ黙々と、目の前の皿と向き合っている。

 厨房に立つ店主・熊岸の、広い背中が、心なしか小さく見えた。


「……いらっしゃい」


 その声には、いつもの覇気がない。

 冬真は、いつもの席に腰を下ろした。


「熊さん。いつもの、チキンで」


 その注文に、熊岸は、一瞬だけ、動きを止めた。そして、何かを言おうとして、やめて、ただ、静かに頷いた。


「……ああ。……今日のスープは、少し、味が違うかもしれねえ。先に、言っておく」


 その言葉の意味を、冬真は聞けなかった。

 やがて、一杯のスープカレーが、彼の前に置かれる。

 見た目は、いつもと同じ。スパイスの香りも、確かにする。だが、冬真の『味の探求者』が、その本質を、冷徹に見抜いていた。

 ――奥深くに、何かが、決定的に欠けている。


 熊岸が、ぽつりと、独り言のようにつぶやいた。


「……魂が、抜けちまったんだ」


 彼は、火を落とした寸胴鍋を、悔しそうに見つめていた。


「この店のスープの魂はな、何日もかけて、じっくり煮込んだモンスターの骨から取る『出汁』なんだよ。オークの骨、ゴブリンの骨、ラットの骨……そいつらが、うちのスープに、誰にも真似できねえ、深いコクと旨味を与えてくれてた」


 だが、と彼は続けた。


「この一週間、どんな骨を使っても、ダメだった。まるで、ただの水道水を煮込んでるみてえに、何の味も、出やしねえ。だから……今日のスープは、その出汁を、使ってねえ」


 それは、この店にとって、心臓を抜き取られたに等しかった。


 冬真は、黙ってスプーンを手に取り、スープを一口、口に運んだ。

 スパイスの、鋭い刺激が、舌を打つ。

 だが、それだけだった。

 いつもなら、その刺激の後から追いかけてくるはずの、幾重にも重なった、複雑で、深く、そして優しい旨味の波が、どこにもなかった。

 それは、完璧な演奏技術で奏でられる、魂の抜けた音楽のようだった。旋律はあるが、感動がない。

 美味しい。不味い。そういう次元の話ではなかった。

 ただ、ひたすらに、悲しかった。


 彼の聖地が、その聖地たる所以を、失ってしまっていた。

 冬真は、無言で、その一杯を食べ終えた。感情を押し殺し、代金をカウンターに置く。


「……ごちそうさまでした。美味かったです」


 それが、彼に言える、精一杯の嘘だった。

 熊岸は、何も言わず、ただ、悔しそうに、唇を噛みしめていた。


 店を出て、ネオンが滲む夜の街を、冬真は、当てもなく歩いた。

 自分を支えていた、世界の中心が、崩れ落ちていくような、途方もない喪失感。


 その時だった。

 ポケットの中のスマートフォンが、鋭い警告音と共に、激しく震えた。

 それは、ギルドから、全ての登録探索者に送られる、緊急招集のアラートだった。

 冬真は、震える指で、その通知を開く。

 画面には、赤く、そして禍々しい文字が、浮かび上がっていた。



【緊急クエスト:S級指定】


【討伐対象:未確認汚染源】


【発生地点:大通公園 地下未踏領域デルタ】


【詳細:原因不明の汚染現象が、札幌市内全ダンジョンの魔力および生態系に深刻な品質劣化を引き起こしている。発生源を特定。全A級パーティーは、直ちにギルド本部へ招集。これは、本市のダンジョン経済圏の存亡に関わる、最優先事項である】



 漠然としていた脅威に、ついに、名前と場所が与えられた。

 冬真は、スマートフォンの光に照らされながら、固く封鎖されているであろう、大通公園の方角を、じっと見つめていた。

 彼の、個人的で、ささやかな悲しみは、今、この街全体の、巨大な絶望へと、確かに繋がっていた。


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