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第22話:色のない市場

 雪村冬真の舌が壊れたわけではなかった。

 壊れ始めていたのは、彼の愛する、この街の『味』そのものだった。

 その事実に、二人が気づくまで、さほど時間はかからなかった。


 数日後、冒険者ギルド札幌支部の1階ホールは、異様な熱気と、焦燥感に包まれていた。普段ならば、探索者たちの威勢のいい声や、高額な素材の取引に沸く活気があるはずの場所。だが、今は、怒声とため息が、澱んだ空気の中に渦巻いていた。


「どういうことだよ! 俺が一日かけて狩ってきたラットが、全部でたったの500円だと!?」

「品質が基準に満たない、の一点張りだ。これじゃ、ポーション代にもなりゃしねえ!」


 換金所のカウンターに、駆け出しのF級探索者たちが詰め寄り、鑑定士に食ってかかっている。だが、鑑定士たちもまた、困惑した表情で首を横に振るばかりだった。


 その光景を、ホールに入ってきた冬真と凛は、黙って見ていた。

 冬真は、あの夜以来、自分の味覚を疑い続けていた。何を口にしても、まるで薄い膜が一枚隔てているかのように、味がぼやけて感じられた。だが、目の前の光景は、それが自分だけの問題ではないことを、残酷に物語っていた。


「……ササキ君の、噂通りね」


 凛が、険しい表情で呟く。彼女もまた、これが単なる一時的な現象ではないことを、肌で感じ取っていた。


 二人は、ホールに併設された素材市場へと、足を踏み入れた。

 そこは、かつての活気を失い、まるで色の抜けた古い写真のようだった。

 露店に並べられたモンスターの素材は、一見すると、いつもと変わらない。だが、よく見ると、その全てが、生命力を失っているのがわかった。ゴブリンの肉の鮮やかな赤みは、どこかくすみ。大蝙蝠の翼の滑らかな光沢は、鈍く曇っている。そして何より、市場全体を覆っていたはずの、あの独特の、生々しい獣の匂いが、ほとんどしない。


 冬真は、ゴクリと喉を鳴らし、近くの露店に山積みされたゴブリンの腕に、『味の探求者』を使った。


 [名称]ゴブリンの腕

 [ランク]F級素材

 [状態]劣化。深刻な風味および栄養素の欠損を確認。

 [可食部位]可。ただし、味は期待できない。

 [市場価値]本来の10%未満。


 次々と、他の素材も鑑定していく。狸小路ダンジョン産も、地下鉄ダンジョン産も、結果は全て同じだった。『劣化』『風味欠損』『価値急落』。

 彼のスキルが、この異常事態を、冷徹な事実として突きつけてくる。


(俺の舌じゃなかったんだ……)


 安堵と、それ以上に巨大な恐怖が、冬真の心を同時に襲った。


(この街の、味が、本当に、消え始めている……)


 二人は、ギルドを出て、札幌場外市場へと向かった。ダンジョン食材を専門に扱う一角は、閑散としていた。馴染みの鮮魚店の店主が、頭を抱えている。


「ダメだ、こりゃ。今日の朝、白石ダンジョンから入ったモンスターシュリンプ、甘みが全然ねえ。こんなもん、寿司屋に卸せるかよ」


 異変は、ギルドという閉じた世界を越え、札幌の食文化そのものを、静かに、しかし確実に蝕み始めていた。


 その日の午後。

 二人が、重い心でギルドに戻ってきた、まさにその時だった。

 これまでとは違う、ひときわ大きな怒声が、ホールの奥、B級以上の探索者が利用するカウンターの方から響き渡った。


「どういう意味だ、これは!『品質劣化』だと!? ふざけるのも大概にしろ!」


 声の主は、市内で名の知れた、実力派のB級パーティーのリーダーだった。彼のパーティーが、カウンターに巨大な牙を叩きつける。見事な湾曲を描く、魔力を帯びたその牙は、本来であれば、高値で取引されるはずの一級品だ。


「これは、野幌森林公園ダンジョンの中層で、オーク・ジェネラルを倒して手に入れたもんだぞ! 低級ダンジョンの雑魚と一緒にするな!」


 野幌森林公園ダンジョン。それは、手稲山ダンジョンには及ばないものの、確かな実力者が挑む、中級ダンジョンの一つ。

 凛の顔から、血の気が引いた。彼女の最後の希望的観測――異変は低級ダンジョンに限定された、局地的なものである、という可能性が、今、目の前で打ち砕かれようとしていた。


 冬真は、人垣の向こうから、その牙に、意識を集中させた。

 鑑定ウィンドウが開く。そこに表示された結果に、彼は息を呑んだ。


 [名称]オーク・ジェネラルの魔牙

 [ランク]C+級素材

 [状態]深刻な魔力劣化。内部構造が崩壊し始めている。

 [特記事項]素材が本来持つ、魔力の『風味』が、ほぼ完全に剥奪されている。


 魔力の、風味。

 その、聞き慣れない言葉に、冬真は背筋が凍るのを感じた。

 これは、ただの腐敗や劣化ではない。もっと根源的な、存在の『味』そのものが、何者かによって、あるいは何かによって、『奪われている』。


「……氷室さん」

「ええ……」


 二人は、言葉を失い、ただ顔を見合わせた。

 この異変は、局地的ではない。低級も、中級も、関係ない。

 それは、まるで癌細胞のように、この札幌の地に根付いたダンジョンという生態系そのものを、内側から静かに蝕む、恐ろしい『病』だった。

 そして、その病の進行速度は、彼らの想像を、遥かに超えているのかもしれなかった。


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