第21話:最高のスープカレーと、不味い肉
その一杯は、祈りのようだった。
雪村冬真と氷室凛の前に置かれた、熊岸の全てを注ぎ込んだ『霜降りグリズリーグリル・スープカレー』。黄金色に輝くスープの上で、王のように鎮座する分厚いグリズリー肉。その完璧な焼き目の上を、溶け出した極上の脂が、きらきらと流れていく。立ち上る香りは、もはやただのスパイスの香りではなかった。それは、森の記憶、山の魂、そして、二人の冒険の物語そのものが凝縮された、あまりにも芳醇なアロマだった。
二人は、スプーンを手に取った。
そして、まずスープを一口。
その瞬間、冬真の脳裏に、これまで味わったことのない情報が、奔流となってなだれ込んできた。
スパイスの宇宙。野菜の甘み。そして、その全てを抱きしめる、グリズリーの脂の、どこまでも深く、どこまでも優しい、王者の旨味。それは、単なる「美味しい」という言葉で表現できる領域を、遥かに超えていた。彼の『味の探求者』のウィンドウが、バグを起こしたかのように明滅し、ただ一言だけを表示した。
『――解析不能。神々の領域――』
隣で、凛が、息を呑むのがわかった。彼女の空色の瞳が、驚きと、感動に、大きく見開かれている。その白い頬を、一筋の、熱い雫が伝っていった。それは、彼女自身でさえ、気づいていない涙だった。
二人は、言葉を失っていた。
ただ、無言で、一匙、また一匙と、その奇跡の味を、自らの魂に刻み込むように、味わい続けた。
この一杯は、彼らの絆を、どんな言葉よりも強く、結びつけていた。
数日が過ぎた。
手稲山での死闘は、すでに遠い昔のことのようだった。
二人の生活は、一変した。ギルドで換金したグリズリーの素材(それも、ほんの一部)によって、冬真の銀行口座には、これまで見たこともないゼロの数が並んでいる。彼は、生まれて初めて、明日のスープカレー代を心配せずに、朝を迎えるという経験をしていた。
二人は、札幌駅の商業施設で、新しい装備を買い揃えた。
凛は、自らの戦闘スタイルに合わせて特注した、魔力伝導率の高い白銀のワンドを手に入れた。冬真もまた、全身の装備を一新し、そして念願だった、チタン製の高級携帯調理器具セットを、子供のような笑顔で購入した。
ギルド内での彼らの立場も、微妙に変化していた。『手稲のグリズリーを仕留めた、C級とB級の二人組』。その噂は、瞬く間に探索者たちの間に広まっていた。高ランクの探索者たちが、彼らに一目置くように、軽く会釈してくる。その全てが、冬真にとっては、どこかむずがゆい、新しい日常だった。
その日、二人はギルドの談話室で、情報屋の大学生・ササキと、久しぶりに顔を合わせていた。
「いやー、雪村さんも氷室さんも、マジで時の人っすね あのグリズリーを倒すなんて!」
ササキは、興奮気味に言った。
「あ、そういえば、一つ妙な噂があるんすけど」
彼は、声を潜めて続けた。
「最近、狸小路とか地下鉄ダンジョンの低級素材が、やけに早くダメになるって、駆け出しの連中がボヤいてるんすよ。味も、なんかボール紙食ってるみたいだって」
「素材の劣化?」
凛が、眉をひそめた。
「低ランクのダンジョンは、マナの循環が不安定だから。一時的なものじゃないかしら」
「っすよねー。俺もそう思うんすけど」
ササキは、軽く笑った。冬真も、その時は、特に気にも留めていなかった。食の話題ではあったが、低級ダンジョンの、それも味気ないモンスターの話など、グリズリーの味を知ってしまった今、些細なことに思えた。
その夜。
冬真は、自分のアパート『メゾン白樺』の、小さなキッチンに立っていた。
グリズリーという強烈な体験の後、彼は、自分の原点に帰りたくなったのだ。つまり、『日々の、ささやかな一杯』の味を、再確認したかった。
その日の昼間、彼は、習慣のように狸小路ダンジョンに潜り、夕食用のジャイアントラットを数匹狩ってきていた。
メニューは、彼の得意料理、『ジャイアントラットの腿肉の塩胡椒炒め』。手際よく肉を捌き、熱したフライパンで、じゅう、と炒める。慣れ親しんだ、香ばしい匂い。
皿に盛り付け、彼は、どこか懐かしい気持ちで、その一口を頬張った。
そして。
「……え?」
冬真は、動きを止めた。
味が、しない。
食感はある。肉を噛んでいる、という感覚はある。だが、そこにあるはずの、あの独特の野性味や、わずかな脂の甘みが、どこにも感じられないのだ。まるで、味付けをするのを忘れた、ただの繊維の塊を噛んでいるかのようだった。
彼は、混乱しながら、もう一口、食べてみる。
やはり、同じだった。無味。無臭。空虚。
(まさか……)
冬真は、おそるおそる、『味の探求者』を発動させた。
[名称]ジャイアントラットの腿肉
[ランク]G級素材
[状態]新鮮(捕獲後2時間以内)
[可食部位]はい
[風味プロファイル]エラー:データを検出できません。深刻な品質劣化を確認。
エラー……?
鑑定結果に、そんな表示が出たのは、初めてのことだった。
冬真は、呆然と、味のない肉の塊が乗った皿を見つめた。
そして、一つの、悲しい結論にたどり着く。
(そっか……俺の舌、グリズリーのせいで、壊れちまったんだ)
あの神々の領域の味を体験してしまったがために、もう、こんなささやかな日常の味を、感じることができなくなってしまったのだ。
それは、美食家にとって、あまりにも残酷で、皮肉な結末だった。
「……マジかよ」
冬真は、力なく笑い、味のない肉を、水で無理やり胃へと流し込んだ。
彼の知らないところで、この街の『味』が、静かに、そして確実に、失われ始めていることを。
その時の彼は、まだ、知る由もなかった。




