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第20話:ただいま、我が聖地へ

 洞窟の中に、静寂が満ちていた。

 雪村冬真は、鑑定結果に表示された『計測不能』という黄金色の文字列から、しばらく目を離すことができなかった。

 彼らが成し遂げたことの、あまりにも巨大な価値。それは、現実感を失わせるほどの衝撃だった。だが、背後から聞こえてきた、氷室凛の苦痛に満ちた呻き声が、彼を我に返らせた。


「氷室さん! しっかり!」


 冬真は、すぐさま凛に駆け寄った。彼女の右腕は、あり得ない方向に折れ曲がり、顔色は青白い。彼は、震える手で、なけなしの回復ポーションを取り出すと、その傷口に振りかけた。ポーションの淡い光が、凛の腕を包み込む。骨が完全に繋がるほどの効力はないが、激しい痛みは和らぎ、出血は止まった。


「……ありがとう」


 凛は、かすれた声で礼を言った。


 そして、冬真は、静かに横たわる山の主へと向き直った。

 これは、儀式だ、と彼は思った。

 彼は、この冒険で手に入れた最高の調理器具――ではなく、解体用ナイフを手に取った。そして、まるで神聖な儀式を執り行う神官のように、その美しい毛皮に、敬意を込めて刃を入れた。

『味の探求者』が、最高の部位を彼に教える。霜降りが最も美しい肩ロース。融点の低い脂が凝縮されたバラ肉。そして、一匙で城が買えるという、背中の純白の脂肪の塊。

 彼は、持ち帰れるだけの、最高の中の最高の部位だけを、丁寧に、完璧に切り分けていった。その手つきを見つめる凛の瞳には、もはや彼をC級と侮る色はなく、一人の『マスター』に対する、畏敬の念が宿っていた。


 下山は、行きよりも遥かに過酷だった。

 疲れ切った身体に、最高級だがひどく重い肉塊がのしかかる。

 その道中、彼らは、あのパーティーと再会した。スカルバイパーズは、結局グリズリーの縄張りにさえ辿り着けなかったらしく、ボロボロの姿で悪態をつきながら下山するところだった。

 彼らは、冬真と凛の姿を見て、そして冬真が背負う、布に包まれてなお、ただならぬオーラを放つ肉塊を見て、言葉を失った。リーダーのゴードンが何かを言おうとしたが、凛の、全てを射抜くような冷たい視線に射すくめられ、何も言えずに道を譲った。

 冬真と凛は、彼らの横を、一言も発さずに通り過ぎた。それは、どんな罵倒や嘲笑よりも、雄弁な勝利宣言だった。


 札幌の冒険者ギルドに辿り着いた時、二人はもはや、立っているのがやっとだった。

 だが、彼らはまっすぐに、私的な鑑定室へと向かう。呼び出されたベテランの鑑定士は、布の中から現れた肉塊を見た瞬間、その場で固まった。


「こ、これは……まさか、文献でしか見たことのない……『霜降りグリズリー』……!?」


 ギルドの鑑定結果も、冬真のそれと同じだった。『ランクA+、特殊個体。市場価値、計測不能』。

 ギルドは、破格の金額での買い取りを申し出てきた。一生遊んで暮らせるほどの、天文学的な額だった。

 だが、冬真は首を横に振った。そして、凛を見る。


「これは、売り物じゃない。食べるためのものです」


 その言葉に、凛は、この冒険で初めて、心の底からの、柔らかな笑みを浮かべた。


「ええ。異議なしよ」




 ――数日後。


 凛の腕は、ギルドの最高級ポーションによって、完治していた。

 そして、二人は、狸小路の路地裏にある、あの店のカウンターに座っていた。

 彼らの聖地、『カレーの鉄人 アイアン・カリー』。

 店主の熊岸は、あの日以来、店に「準備中」の札をかけ、ずっと厨房にこもりきりだった。彼もまた、一人の料理人として、伝説の食材を前に、己の全てを懸けていたのだ。


 そして、その時は来た。

 店の奥から、これまでに嗅いだことのないような、芳醇で、神々しいまでの香りと共に、熊岸が現れた。その手には、二つの土鍋。

 彼の顔は、疲れ切っていたが、その目には、職人としての、最高の仕事を成し遂げた者だけが持つ、誇りと満足感が燃えていた。


「……待たせたな」


 その声は、少しだけ震えていた。

 二人の前に、そっと、その一杯が置かれる。


 それは、もはやスープカレーという名の、別の次元の料理だった。

 スープは、グリズリーの脂が溶け出し、それ自体が黄金色に輝いている。中央には、完璧な焼き加減のグリズリーグリルの分厚いステーキが、王の玉座のように鎮座している。その周りを、彩り豊かな野菜たちが、忠実な家臣のように囲んでいた。

 立ち上る湯気の一粒一粒が、スパイスと、肉と、野菜と、そして二人の冒C険の物語を、豊かに香らせていた。


 冬真と凛は、どちらからともなく、顔を見合わせた。

 そこには、この無謀な冒険の、全ての記憶が映っていた。恐怖も、痛みも、喜びも、そして、二人でなければ決して辿り着けなかった、この奇跡の瞬間も。

 二人は、ゆっくりと、それぞれのスプーンを手に取った。


 そして、声を揃えて、静かに、しかし、世界で最も心のこもった声で、言った。


「「いただきます」」

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