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第1話:いつもの席と、いつもの一杯

 最後の一滴までスープを飲み干した土鍋が、カウンターの上で満足げに鎮座している。その深い焦げ茶色の器の縁には、幾多のスパイスが戦いの軌跡のようにこびりついていた。雪村冬真ゆきむら とうまは、食後の水を満たした分厚いグラスを傾けながら、その景色をぼんやりと眺めていた。グラスの中では、申し訳程度に加えられたスライスレモンが、ことりと氷に寄りかかっている。


「……お前、またそのショルダーポーチ、ボロボロじゃねぇか」


 カウンターの内側で、熊のような大男――店主の熊岸くまぎしが、湿らせた布巾でピカピカに磨き上げた調理台をさらに磨きながら、呆れたように言った。その太い指先は、繊細なスパイスを操る時と同じように、実に丁寧な手つきで動く。


「稼ぎはまず装備に回せって、あれほど言ってるだろうが。そんなんじゃ、いざという時に中身ぶちまけるぞ」

「いや、今日の稼ぎの使い道は、もう決まってるんで」

「決まってるんで、じゃねぇよ。お前が言う使い道なんて、どうせ明日のスープカレー代だろ」

「……まあ、はい」


 冬真は悪びれもせずに頷いた。事実なのだから仕方がない。彼にとって、探索者の稼ぎとは、明日もこの席に座るための権利なのだ。装備の修繕は、その権利を確保した上で、なお余力があれば考えればいい。今のところ、その「余力」が生まれたことは一度もなかったが。


 店内の壁に掛けられた古い液晶テレビでは、道内のニュースが音量を絞って流れている。『石狩湾新港ダンジョンから産出された“魔鉱石”の市場価格が、今期最高値を更新しました。これを受け、関連企業の株価も軒並み上昇し……』キャスターが淡々と原稿を読み上げる。この世界では、ダンジョンは天気予報と同じくらい当たり前に、経済の指標として語られる。


 カラン、と乾いたベルの音を立てて店の扉が開き、ガタイのいい男が二人入ってきた。彼らが脱いだジャケットのエンブレムは、市内にいくつかある探索者ギルドの中でも、特に武闘派で知られる『鋼の獅子(アイアン・ライオン)』のものだ。


「お、熊さんやってる? とりあえずビール2つ!」

「あいよ」


 男たちはカウンターの入り口近くにどかりと腰を下ろし、今日の稼ぎについて大声で話し始めた。


「いやー、今日のオークキングは硬かったぜ!」

「だが、ドロップした牙は年代モンだったな。あれだけで今週の飲み代は浮いたろ」


 冬真は彼らの会話に耳を傾けるでもなく、ただ水のグラスを揺らしていた。ランク、ギルド、高額なドロップアイテム。他の探索者たちが追い求めるそれらのものは、冬真にとってテレビの中の経済ニュースと同じくらい、自分とは縁遠い世界の話に聞こえた。


「お前も、もうちっと欲を出したらどうだ。C級のままで、もう何年になる」

「ランクアップ試験とか、面倒じゃないですか。書類仕事とか面接とか」

「そういう問題か……」


 熊岸は深いため息をつき、布巾を置いた。そして、まるで何かを思い出したように、少しだけ声を潜める。


「そういや冬真、聞いたか?」

「何をです?」

「狸小路の話だ」


 熊岸は、スパイスがずらりと並んだ棚に視線をやりながら言った。シナモン、クローブ、カルダモン。ラベルの貼られた何十もの小瓶が、薄暗い照明の中で静かに息を潜めている。


「最近、狸小路ダンジョンで、妙に腕の立つヤツがウロウロしてるらしい」

「妙なヤツ、ですか」

「ああ。とにかく手際がいい。出現したモンスターを片っ端から、一撃で氷漬けにしていくそうだ。まるで、邪魔なゴミでも掃除するかのように、な」


 氷漬け、と聞いて、冬真は今日の午後にダンジョンで見た光景を思い出した。通路の壁に、まるで前衛芸術のように張り付いていた氷の破片。あれは、そういうことだったのか。


「女だって噂だ。見た目は若い嬢ちゃんだが、その腕はB級以上じゃないかって話でな。ギルドに所属してない野良ノラらしくて、ちょっとした有名人になってる」

「へえ……氷使い、ですか。涼しそうでいいですね」


 冬真の間の抜けた返事に、熊岸はこめかみをピクつかせた。


「お前なあ……感心するとこはそこじゃねぇだろ。普通は、どんなスキルだとか、どこの誰だとか、気になるもんだろうが」

「気にしたところで、会うわけでもないですし」


 冬真は残っていた水を飲み干し、席を立った。勘定は、1,200円。今日の稼ぎの、およそ三分の一。だが、その価値は十二分にあった。


「ごちそうさまでした。美味かったです」

「おう。……まあ、お前みたいな素材拾いが、そんな手合いと鉢合わせるこたねぇか」


 熊岸はレジを打ちながら、ニヤリと笑った。


「せいぜい、そいつが残した氷の欠片で滑って転ぶなよ」


「気をつけます」と冬真が応えた、その時だった。

 カラン、と。

 先ほどよりも少しだけ澄んだベルの音を立てて、店の扉が開いた。


 外の湿った夜気を背負って立っていたのは、一人の女だった。

 歳の頃は、20代前半の冬真と同じくらいか、それより少し下か。銀色のショートカットが、店の裸電球の光を弾いている。その身に纏う探索者用の装備は、どれも実用性一辺倒で、装飾の類は一切ない。

 そして何より、その纏う空気が、まるで冬の朝のように、凛と張り詰めていた。


 女は店内を一瞥すると、カウンターの男たちには目もくれず、まっすぐに熊岸の、そしてその隣に立つ冬真の方を見た。

 その静かな瞳が、冬真の腰にある、ボロボロのショルダーポーチに留まる。

 ほんの、一瞬だけ。


「……席、空いてるかしら」


 温度の低い、よく通る声だった。

 熊岸が「へい、いらっしゃい」と応える。

 冬真は、なぜだか分からないまま、その場を動けずにいた。


 女は冬真の横を通り過ぎ、カウンターの席に腰を下ろす。

 その瞬間、ふわりと、冬の匂いがした。

 まるで、ダンジョンで見た氷の欠片が、すぐそばに現れたかのような。

 そんな、奇妙な錯覚だった。


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