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第18話:最高の囮

 雪村冬真の目の前で、世界のすべてがスローモーションになった。

 山の主が、ゆっくりと、こちらへ向かってくる。一歩、また一歩と、その歩みを進めるたびに、洞窟の地面がわずかに震えた。背後からは、壁に寄りかかった氷室凛の、苦痛に満ちた浅い呼吸が聞こえる。

 死ぬ。

 その二文字が、脳を白く塗りつぶそうとする。恐怖が、足から根を生やしたかのように、身体を縫い止めていた。


 だが、凛の、か細い呼吸音を聞いた瞬間、冬真の中で、何かが焼き切れた。

 スープカレーが食べたいから? 究極の食材が欲しいから?

 違う。

 そんな理由は、今、この瞬間、どうでもよかった。

 ただ、目の前の、このたった一人の仲間を、守らなければ。

 その、あまりにも単純で、純粋な衝動が、彼の身体を動かした。


 冬真は、震える足で、凛の前へと回り込む。その貧弱な身体で、巨大な獣との間に壁を作るように。あまりにも無意味で、無謀な行為。

 そして、彼は最後の悪あがきのように、スキル『味の探求者』を発動させた。死を覚悟した目で、目の前の絶対的な捕食者を、鑑定する。


 [名称]霜降りグリズリー

 [ランク]A級(相当)

 [状態]極めて優位。獲物を前に、好奇心と食欲が最大。

 [可食部位]全身すべてが、比類なき美味。

 [特記事項]極めて高い知性と、美食家としての性質を併せ持つ。弱く、あるいは不味そうな獲物には興味を示さないが、自らが『価値ある一品』と認めた相手には、異常なまでの執着を見せる。


 ――美食家? 価値ある、一品?

 その文字列が、冬真の脳に、稲妻のような閃きをもたらした。

 この獣は、ただの捕食者ではない。俺と同じ、『食』に執着する同類。

 そして、俺が放つ気配――素材の価値を見抜くこのスキルが放つ、特殊なオーラに、こいつは興味を示しているんだ。


 ならば。

 俺がなってやる。

 こいつの短い一生で、二度と出会うことのない、最高の『一品』に。

 最高の『囮』に。


「氷室さん!」


 冬真は、背後の凛に向かって叫んだ。


「聞こえますか!? 奴の狙いは、俺だ! きっと、俺に興味があるんだ!」


 凛が、苦痛の中で、かろうじて顔を上げる。


「俺が、奴の注意を完全に引きつけます! 奴が、俺だけに集中して、突進してきたら……その瞬間、足元を凍らせてくれ! 一瞬でいい! それが、俺たちの唯一のチャンスだ!」


 凛の瞳が、無謀な提案に、わずかに見開かれる。

 冬真は、そんな彼女の返事を待たず、グリズリーへと向き直った。

 そして、彼は、この人生で最も奇妙で、最も危険な賭けに出た。

 彼は、山の主に向かって、語りかけ始めたのだ。


「……すごいな、あんた」


 その声は、震えていなかった。そこにあるのは、目の前の極上の『食材』に対する、純粋な感嘆と、敬意。


「その肩ロース……なんて見事なサシだ。分厚く切り出して、強火で表面だけを焼き固め、あとは低温でじっくりと火を通す。岩塩と、手稲の山で採れる黒胡椒だけでいい。ナイフを入れた瞬間に、肉汁が滝のように溢れ出すのが、目に浮かぶようだ」


 グルル……?

 グリズリーの歩みが、わずかに緩慢になった。その知性的な瞳が、目の前の小さな獲物を、いぶかしむように見つめている。


 冬真は、続けた。その口調は、もはや、一流レストランのシェフが、最高の客に、その日最高の食材を説明するかのようだった。


「そのバラ肉の脂身! なんて透明度だ。煮込めば、スープに黄金色の輝きと、芳醇な甘みを与えるだろうな。野菜と一緒に、ことこと、三日三晩。想像しただけで、喉が鳴る」

「そして、その舌……タン。間違いなく、極上の珍味だ。厚切りにして、炭火で炙る。レモンを軽く絞って……いや、山わさびの醤油漬けがいいか……」


 冬真の独白は、狂気の沙汰だった。

 だが、その狂気は、確かに、山の主の理性に届いていた。

 グリズリーの、いぶかしむような目は、やがて、純粋で、獰猛な『食欲』の色へと変わっていった。こいつは、ただの獲物ではない。自らの価値を理解し、その調理法まで語る、前代未聞の『珍味』だ。

 これを、味わいたい。喰らいたい。


 ゴアアアアアアアアアアアアッッ!!


 ついに、山の主は、本能の咆哮を上げた。

 それは、もはや威嚇ではない。最高の料理を前にした、歓喜の雄叫びだった。

 そして、その巨体が、冬真、ただ一人だけを目指して、直線的に、そして猛烈な勢いで突進を開始した。

 洞窟が、揺れる。


 ――今だ!

 冬真は、迫りくる死を前に、目を閉じることすらなかった。

 彼の視線の先、背後で、凛が、折れた腕の激痛に耐えながら、残された左手で、白樺の杖を拾い上げているのが見えた。

 その青白い顔には、苦痛と、魔力の枯渇による疲労と、そして、この無謀な相棒への、絶対的な信頼の色が浮かんでいた。


 彼女は、杖の先端を、グリズリーの巨大な足元へと、確かに向けていた。

 あと、数メートル。

 冬真の命が尽きるまで、あと、数秒。

 二人の、全てを懸けた一瞬が、訪れようとしていた。


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