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第16話:嵐の夜の告白

 雪村冬真が示した獣道は、道と呼ぶにはあまりにも心許ない、ただの傾斜だった。ぬかるんだ土に足を取られ、張り出した木の根に手をかけ、二人は互いに助け合いながら、険しい崖を登っていく。氷室凛が、力強く冬真の手を引く。冬真が、彼女が気づかない足元の浮石を、小声で教える。言葉は少ない。だが、彼らの間には、共通の目的を持つ者だけが分かち合える、確かな信頼が生まれていた。


 数時間後、二人はついに、その険しい道を抜けきった。

 眼下には、彼らが避けてきた尾根沿いのルートが、まるで模型のように小さく見える。そして、その道をのろのろと進む、蟻のような三つの人影――スカルバイパーズの姿を、確かに捉えていた。


「……やった。出し抜いたわ」


 凛の口から、安堵のため息が漏れた。

 そして、彼らの目の前には、ついにその場所が口を開けていた。山の岩肌に、ぽっかりと空いた巨大な洞窟。入り口の周りには、他の獣の物らしき、白骨化した骨が散らばっている。風に乗って、濃密な獣の匂いが漂ってきた。

『霜降りグリズリー』の、巣穴。


「今夜は、ここで最後の野営をする。朝一番で、決着をつけるわ」


 凛の冷静な判断に従い、二人は洞窟から安全な距離を保った、風下の岩陰に小さなテントを設営した。

 だが、彼らの運は、ここで尽きたらしかった。

 設営を終えるか終えないかのうちに、空が急速に暗雲に覆われ、気温が急激に下がっていく。山の天気は、気まぐれな神のように、その表情を豹変させた。


 ゴロゴロ、と。地を這うような低い雷鳴が響き、大粒の雨が、叩きつけるように降り始めた。風が唸りを上げ、木々を揺らす。それは、ただの夕立ではなかった。手稲の山が、その懐に抱える、荒ぶる魂そのものだった。

 二人は、狭い二人用のテントの中に、逃げ込むしかなかった。


 テントの布地を、激しい雨粒がドラムのように叩く。時折光る稲妻が、一瞬だけテント内を青白く照らし出し、すぐにまた暗闇へと突き落とす。外の世界から完全に隔絶された、小さな密室。二人は、ただ黙って、その音を聞いていた。

 夕食は、昨日買ったばかりの、味気ないカロリーバーだった。温かい食事も、焚き火の光もない。それが、この極限状況を、より一層際立たせていた。


「……ひどい嵐ね」


 凛が、外の闇に向かって、ぽつりと呟いた。


「まるで、あの時みたいだわ」

「あの時……?」


 冬真が聞き返すと、凛は、自分の膝を抱えるようにして、小さな声で語り始めた。嵐の音が、彼女の告白を、誰にも聞かせまいとするかのように、世界から隠していた。


「私が、初めて組んだパーティーでの話。みんな、いい人たちだった。私を、妹のように可愛がってくれた」


 彼女の瞳には、遠い過去の、温かい光景が映っているようだった。


「でもある日、高ランクのダンジョンで……私たちは、判断を誤った。いいえ、私が、判断を誤ったの。斥候役だった私が、この道は安全だと、そう報告してしまった」


 そこは、罠だった。落盤と、モンスターの奇襲。為す術もなかった、と彼女は言った。


「リーダーが、最後に私を、瓦礫の外へ突き飛ばしてくれた。『生きろ』って。それが、私が彼から聞いた、最後の言葉だった」


 彼女の声は、震えていた。


「私だけが、生き残った。でも、それは、罰のようだった。私がもっと強ければ。私の判断が、正しければ。みんな、今でも……」


 だから、と彼女は続けた。


「だから、強くならなければいけなかった。もう二度と、誰かの判断に頼ったり、誰かに守られたりしないように。私一人が、圧倒的に強ければ、もう誰も失わずに済む。そう、信じてきた」


 それは、彼女がずっと一人で背負い続けてきた、重すぎる十字架だった。

 冬真は、何も言えなかった。ただ、嵐の音に混じる彼女の嗚咽を、静かに聞いていることしかできなかった。彼は、自分の水筒を、黙って彼女に差し出した。凛は、こくりと頷き、それを受け取った。


 やがて、猛威を振るっていた嵐は、夜明けと共に、嘘のように過ぎ去っていった。

 疲れ果てた二人は、いつの間にか、浅い眠りに落ちていた。


 朝。

 テントの外の空気は、嵐に洗われ、どこまでも澄み切っていた。

 二人が、覚悟を決めてテントから出ると、目の前の光景に息を呑んだ。

 洞窟の入り口。その前の、湿った黒い土の上に、くっきりと、新しい足跡が残されていたのだ。

 大人の男が、すっぽりと収まってしまうほどの、巨大な獣の足跡。

 それは、一度洞窟から出て、そしてまた、中へと戻っていったようだった。


 山の主は、戻ってきた。

 そして、自分たちの存在に、気づいている。


「……時間ね」


 凛が、静かに言った。その声に、もう迷いはなかった。過去の亡霊を振り払ったかのように、その瞳は、ただ目の前の敵だけを見据えている。

 冬真も、無言で頷いた。


 決戦の朝。

 二人は、それぞれの武器を手に取り、静かに、山の主が待つ洞窟へと、その一歩を踏み出した。


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