第14話:氷の檻とグルメの知恵
紫色の魔法陣の光が、雪村冬真と氷室凛の顔に、濃い絶望の影を落としていた。
峡谷の前方と後方から迫る、おびただしい数のモンスター。ウルフの飢えた唸り声と、オークの野蛮な鬨の声が、岩壁に反響して二人の鼓膜を揺さぶる。崖の上からは、スカルバイパーズの下品な嘲笑が降り注いでいた。
退路はない。完全な、死地。
「――冬真、下がりなさい!」
凛の叫び声が、冬真の思考を現実へと引き戻した。
彼女は一歩前に出ると、その白樺の杖を、強く地面に突き立てた。
「凍てつく吐息の城壁よ、我が盾となれ! ――『氷の城壁』!」
凛の詠唱に応え、二人の周囲の地面が轟音と共に隆起する。湿った土を突き破り、巨大な氷の柱が、次々と、そして瞬時に天へと伸び上がった。それは、ただの氷の壁ではなかった。鋭く尖った無数の氷柱が、互いに複雑に絡み合い、外敵の侵入を一切許さない、青白く輝く、いびつな『檻』を形成していた。
ガギン! ドゴォン!
檻が完成した直後、外側から凄まじい衝撃が襲いかかる。モンスターたちが、牙を、爪を、棍棒を、怒りのままに氷の壁に叩きつけているのだ。半透明の氷の向こうに、無数の獣のシルエットが蠢き、その衝撃で氷の檻全体が軋み、悲鳴を上げる。
光が乱反射する美しい氷の檻の中は、今や、死と隣り合わせの閉所となっていた。
「くっ……!」
凛の額に、玉の汗が浮かぶ。この規模の防御魔法を維持するには、莫大な魔力を消耗する。彼女の表情には、焦りの色が浮かんでいた。
「冬真! この壁は、長くはもたないわ! 何か、何か手は無いの!?」
冬真は、パニックに陥りそうな自分を、必死で叱咤していた。
(落ち着け。鑑定しろ。価値を見つけろ。この状況で、一番『価値』のあるものは、なんだ?)
彼は、スキル『味の探求者』を最大まで発動させた。視界の端で、半透明のウィンドウが、周囲の情報を猛烈な勢いでスキャンしていく。
モンスターの群れ――突破口なし。
岩壁――登攀不可。
唯一の活路は、このモンスターの群れを、どうにかして退けること。
その時、彼の視界が、檻のすぐ外、手の届きそうな岩肌に生えている、何の変哲もない苔を捉えた。
[名称]ケムリゴケ
[ランク]E級素材
[可食部位]なし(粘膜に強い刺激を与えるため、食用は推奨されない)
[市場価値]クラスターあたり100円(害獣忌避剤として)
[特記事項]燃焼させると、哺乳類型およびゴブリン型のモンスターが極端に嫌う、刺激性の強い白煙を大量に発生させる。無毒だが、強力な忌避効果を持つ。
これだ!
「氷室さん! あの苔です!」
冬真は、氷の壁の向こう側を指さした。
「あの『ケムリゴケ』を燃やせば、連中を追い払えるかもしれない!」
「苔を燃やすですって!? でも、どうやって!」
「壁に、少しだけ隙間を開けられますか! 俺が、あれを掻き集める!」
凛は一瞬ためらった。この均衡を崩せば、一気に雪崩れ込まれる可能性がある。だが、彼女は冬真の必死の形相を見て、賭けることに決めた。
「……五秒だけよ! それ以上は無理!」
彼女が意識を集中させると、目の前の氷の壁の一部が、すうっと薄くなった。その隙間から、モンスターの鉤爪が、唸り声をあげて突き込んでくる!
冬真は、その爪を身をかがめて避けながら、ナイフを岩肌に突き立て、猛烈な勢いでケムリゴケを掻き集めた。一秒、二秒……。ポーチに、黒ずんだ緑色の苔が、十分な量だけ収まる。
「氷室さん、戻して!」
叫ぶと同時に、氷の壁が再び元の厚さに戻り、モンスターの追撃を阻んだ。
「火を! 早く!」
凛の悲鳴のような声に応え、冬真は昨日買ったばかりの着火キットを取り出し、震える手で苔の塊に火をつけた。
苔は、炎を上げて燃えることはなかった。だが、その断面から、じゅ、という音を立てて、濃密で、そしてひどく刺激臭のする白い煙が、もくもくと立ち上り始めた。
「氷室さん、檻の上部を開けて!」
凛が最後の魔力を振り絞り、氷の檻の天井部分を開放する。白煙は、煙突から吐き出されるように、勢いよく檻の外へと流れ出し、峡谷全体に瞬く間に充満していった。
グルォォ!? ギャイン!
効果は、てきめんだった。
煙を吸い込んだモンスターたちが、苦しげに呻き、目をこすり、咳き込み始める。あれほど獰猛だった攻撃が、ぴたりと止んだ。彼らは、先を争うようにして、煙の発生源から逃れようと、後方へと退却を始めたのだ。
「……やった」
冬真の口から、安堵の声が漏れた。
「やったわ……!」
凛も、膝に手をつき、荒い息をつきながら、その光景を見ていた。
包囲網は、崩れた。活路が、開かれた。
二人が、勝利を確信した、その時だった。
「――グルアアアアアアアアアッッ!!」
退却していくモンスターの群れの中から、ひときわ巨大な影が、煙を突き破って、逆にこちらへと突進してきた。
身の丈三メートルはあろうかという、オークの王――オーク・チーフテン。その目は、煙の刺激で赤く充血していたが、それ以上に、純粋な怒りと殺意に燃え上がっていた。
他の雑魚とは違う。この程度の小細工で、引き下がるような相手ではなかった。
知恵と連携で切り抜けたはずの絶望が、今、より強大で、より純粋な『暴力』となって、二人の目の前に、再び立ちはだかった。




