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第10話:夜明けのバスと北の森

 土曜日の午前4時半。初夏の札幌は、まだ夜の青に沈んでいた。

 雪村冬真は、眠い目をこすりながら札幌駅のバスターミナルにいた。アスファルトを濡らす朝露の匂いと、一日の始まりを告げるディーゼルエンジンの排気の匂いが混じり合う。昨日買ったばかりの、体に馴染まない新品のアウトドアジャケットが、やけにゴワゴワと感じられた。


 バス乗り場の列には、すでに数人の人影があった。その中に、名前のとおり凛とした立ち姿ですぐにそれとわかる、氷室凛の姿を見つける。彼女は壁に寄りかかり、静かにストレッチを繰り返していた。その姿は、まるでオリンピックに臨むアスリートのように、すでに完璧な集中状態に入っている。


「……おはようございます」

「おはよう」


 凛は短く応えると、ストレッチを止め、冬真の服装に素早く視線を走らせた。その目に、わずかな安堵の色が浮かんだのを見て、冬真は(どうやら今日の服装は及第点らしい)と、少しだけホッとした。


 やがて、手稲山麓行きの始発バスが、大きな車体を滑り込ませてきた。乗り込んだ乗客は、彼らの他に数人の本格的な装備の登山客と、同じくダンジョンへ向かうであろう、若い探索者のグループが二組ほど。日常と非日常が同じ空間に同居する、この街ならではの光景だった。

 冬真と凛は、後方の窓際の席に並んで腰を下ろした。


 バスは定刻通りに発車し、まだ眠りの中にある市街地を滑るように進んでいく。車窓から見える風景が、少しずつ、しかし確実に変化していく。大通公園のテレビ塔が遠ざかり、ビル群が低層の住宅街へと変わり、やがてその向こうに、朝靄のかかった深い緑の山々が見え始めた。

 隣に座る彼女からは、いつもと同じ、冬のような匂いがした。だが、今日はそこに、微かな緊張と、ミントのタブレットの匂いが混じっているのを、冬真は感じ取っていた。


「……熊岸さんが、気をつけてって」


 沈黙に耐えかねて、冬真が切り出した。


「あの山の主は、賢いから、試されてると思え、と」

「忠告は、ありがたく受け取っておくわ」


 凛は、窓の外に視線を向けたまま、静かに応えた。


「でも、最後は自分の眼と判断を信じるしかない。情報に振り回されるのは、三流のやることよ」


 その声は、いつも通りクールだったが、握りしめられた彼女の拳が、白くなっているのに冬真は気づいていた。彼女もまた、この未知の挑戦を前に、緊張しているのだ。そのことが、ほんの少しだけ、彼らの間の距離を縮めたような気がした。


 一時間ほど走っただろうか。バスは終点の『手稲山ダンジョンゲート前』停留所に到着した。

 バスを降りた瞬間、二人は思わず息を呑んだ。市街地とは、空気の密度がまるで違う。澄み切って、冷たく、そして濃い木の匂いが肺を満たす。鳥のさえずりが、鼓膜に心地よく響いた。


 そして、目の前には、それがそびえ立っていた。

 狸小路の無機質な鉄扉とは、まるで成り立ちが違っていた。二本の巨大な古木が、自然のままの形でゲートとなり、その上には注連縄のように、魔力を帯びた蔦が編み込まれている。まるで、この森自身が、訪れる者を選別するために設けた、巨大な鳥居のようだった。

 ゲートの先には、どこまでも続くかのような、深く、そして美しい森が広がっている。


「……すごいな」


 冬真の口から、素直な感想が漏れた。


「ここが、中級ダンジョン……」

「気を引き締めなさい」


 凛は、最後の装備チェックをしながら、短い指示を出す。


「ここからは、一歩間違えれば死ぬ。いつもの狸小路とは訳が違うわ」

「……はい」


 二人は顔を見合わせ、無言で頷く。

 そして、覚悟を決めて、巨大な鳥居のようなゲートをくぐり抜けた。


 その瞬間、空気が変わった。

 ただの森ではない。濃密な魔力が、霧のように肌にまとわりついてくる。木々はより高く、より深く、その枝葉で空を覆い隠している。光はまだら模様に地面に落ち、無数の下草が、何かを隠すかのように生い茂っていた。

 静寂。

 完全な静寂が、この場所を支配していた。


 二人が、未知の世界へ、静かに、そして慎重に一歩を踏み出した。

 その、時だった。


 森の、奥深くから。

 一声、遠吠えが響いた。


 アオォォォォォォン―――。


 それは、空気を震わせ、肌を粟立たせる、野生の王の咆哮だった。狸小路のモンスターたちの、ただがむしゃらな威嚇の声とは、次元が違う。そこには、明確な知性と、縄張りを主張する絶対的な自信が満ちていた。


 冬真と凛は、ぴたりと足を止め、お互いの顔を見合わせた。

 歓迎の挨拶にしては、あまりにも手荒すぎる。


 二人の本当の冒険は、今、この瞬間から始まった。


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