第9話:買い出しと、それぞれの理由
決行前日、金曜日の午後。雪村冬真は、札幌駅に直結する巨大商業施設のアウトドア用品店にいた。色とりどりの高機能ウェアや、無骨なデザインの登山用具が所狭しと並ぶ空間は、彼にとって普段なら最も縁遠い場所の一つだ。
彼の隣で、氷室凛は専門店のスタッフと見紛うほどの手際と知識で、必要な装備を次々とリストアップしていく。
「インナーは、汗をかいても体温を奪わない化学繊維のもの。最低でも二着は必要よ」
「アウターは、防水透湿性に優れた素材が必須。手稲山の天気は変わりやすいから」
「行動食は、高カロリーで軽量なナッツバーとドライフルーツ。それと、緊急用に高純度の魔力回復薬を各自一本ずつ」
凛が指し示す商品は、どれも一流メーカーの、目玉が飛び出るような値段のものばかりだった。
「ええ……この下着一枚で、スープカレーが何杯食べられるか……」
「命とスープカレーを天秤にかけるんじゃないわよ」
凛は、心底呆れたというように、冷たく言い放った。
「これは、娯楽じゃない。投資よ。生きて帰るための、必要経費」
彼女の価値観では、装備への出費は『命の保険料』だった。一方、冬真にとって、スープカレー代以外の出費は全て『贅沢品』に分類される。二人の金銭感覚は、ダンジョンの入り口と最深部ほども離れていた。
しぶしぶと、しかし命には代えられないので、冬真は凛が選んだ最低限の装備を買い物カゴに入れていく。だが、彼の興味は、いつの間にか店の片隅にあるキャンプ用の調理器具コーナーに惹きつけられていた。
チタン製の、驚くほど軽いフライパン。折り畳み式のシェラカップ。そして、コーヒー豆やスパイスを、その場で挽ける携帯用の小型ミル。
それらは、冬真の目には、どんな高級な魔法の装備よりも魅力的に、キラキラと輝いて見えた。
「これがあれば、ダンジョン内でもっと本格的な料理が……オーク肉のソテーとか、森のキノコのアヒージョとか……」
うっとりと呟く冬真の横で、凛は深いため息をついた。
「あなたって人は、本当に……」
その時、冬真はふと、素朴な疑問を口にした。
「氷室さんは、どうしてそこまでしてA級に?」
金のためだけなら、B級でも十分に稼げるはずだ。彼女の執着は、もっと別の、根深い何かから来ているように思えた。
凛は一瞬、表情を曇らせた。札幌駅の喧騒を映す店の大きな窓に視線をやり、ぽつり、と呟く。
「……認めさせたいヤツがいるの」
「え?」
「私が、間違っていなかったってことを。証明しないといけない。私が、誰よりも、正しいって」
その声には、彼女の普段の冷静さからは想像もつかない、熱い何かが滲んでいた。それは、過去の出来事に対する後悔か、あるいは、誰かに向けられた怒りか。冬真には、それ以上は何も聞けなかった。凛も、すぐにいつもの無表情に戻ると、「さあ、次はあなたの番よ。その貧弱なナイフじゃ、グリズリーの皮一枚剥げないわ」と、話を切り替えてしまった。
買い物を終え、札幌駅のコンコースで解散する。二人の手には、明日の冒険へのチケットとも言える、装備の入った大きな紙袋が握られていた。
その夜、冬真は一人で、狸小路の路地裏にある『カレーの鉄人 アイアン・カリー』を訪れていた。
決戦前の、いわば『最後の晩餐』。彼なりの、儀式だった。
「いらっしゃい」
カウンターに座ると、店主の熊岸が、いつもと同じぶっきらぼうな声で迎えてくれた。
「熊さん。いつもの、お願いします」
「あいよ」
だが、熊岸はすぐに、冬真のいつもと違う、どこか覚悟を決めたような雰囲気に気づいたようだった。彼は黙ってチキンカレーを調理しながら、探るような視線を冬真に送っている。
熱々のスープカレーが、目の前に置かれる。スパイスの香りが、緊張した心を優しく解きほぐしていく。
冬真は、スプーンを手に取る前に、意を決して口を開いた。
「明日から、少し留守にします。手稲山に」
熊岸の、寸胴鍋をかき混ぜる手が、ぴたりと止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、その鋭い目で冬真を射抜く。
「……お前、本気か。あの氷の嬢ちゃんと、一緒か」
やはり、この男には何もかもお見通しらしい。冬真は、黙って頷いた。
熊岸は、ふぅ、と長い息を吐いた。そして、カウンターに身を乗り出すと、声を潜めて言った。
「冬真、よく聞け」
その声は、いつになく真剣だった。
「あの山の主は、ただのデカい熊じゃねえ。狡猾で、執念深い。これまで何人ものベテランが、その『賢さ』にやられてきた」
「賢さ……?」
「ああ。あれは、罠を張る。待ち伏せもする。怒りに任せて突っ込んでくるだけの、ただの獣だと思うな。あれは、獣の皮を被った、何か別の生き物だ。お前ら二人が、その力と、智慧を、『試されてる』ってことを、絶対に忘れんなよ」
熊岸の言葉の重みが、ずしりと冬真の腹に響いた。
最高のスープカレーを味わいながらも、明日からの戦いが、想像を絶するほどに過酷なものであることを、彼は改めて予感していた。
最後の一滴までスープを飲み干し、冬真は席を立った。
「熊さん、行ってきます」
「おう」
熊岸は、顔を上げなかった。ただ、力強く、一言だけ応えた。
「死ぬなよ」
店の外に出ると、金曜の夜の湿った空気が、火照った顔に心地よかった。
明日、この場所に、必ず生きて帰ってくる。
そして、今日の一杯を超える、最高の味を体験するために。
冬真は、静かに決意を固め、夜の闇へと歩き出した。




