プロローグ:世界は一杯のスープカレーでできている
YOSAKOIソーラン祭りの熱狂が、アスファルトに染み込んだ湿気と共にまだ街の隅に残っている。六月の札幌の夜は、ほんの短い間だけ、その肌を緩める。日中の喧騒が嘘だったかのようにネオンの滲む空は高く、どこか遠い場所の匂いを運んでくる風が、すすきのの雑居ビルの谷間を吹き抜けていった。
その風が、ひときゆの鉄錆と、もっと生々しい獣の血の匂いを孕んだ男の髪を揺らす。
「―――ふぅ」
ビルの裏口、ゴミ集積所の隣にある『ダンジョン・ゲート【南6西4】指定』とプレートが貼られた鉄扉から、雪村冬真は現れた。吐き出した息は白くならない。そのことに、ああ、もうそんな季節か、とぼんやり思う。
彼が背負うバックパックは、見た目以上に重い。使い古された革のポーチからは、今しがた狩ってきたばかりの「ジャイアントラットの魔石」と、おまけ程度の「コボルトの耳」が覗いている。換金すれば、たぶん、四千円と少し。そこからポーションの補充代を引けば、手元に残るのは三千円と小銭がいくつか。時給に換算するような野暮は、とうの昔にやめた。
右肩が、鈍く痛む。コボルトが振り回した粗末な棍棒を、避けきれなかったせいだ。こういう小さな怪我と疲労は、探索者の日常に澱のように溜まっていく。
冬真はアスファルトに滲むネオンの光だまりを踏みしめ、ゆっくりと歩き出した。疲労に軋む身体を引きずるように、しかしその足取りには確かな目的があった。
国道36号線、札幌で最も夜が深い場所。客引きの若い男の声も、派手なドレスを纏った女たちの嬌声も、今の冬真にとってはただの背景音楽でしかない。他の探索者たちとすれ違う。高ランクパーティーだろうか、真新しいミスリル製の装備を輝かせながら、これからダンジョンへ向かうらしい彼らの会話が耳を掠める。
「次のターゲットは『深淵』だろ?」
「ああ、最下層のボスを狩れば、今月のノルマは達成だ」
彼らにとって、ダンジョンは『職場』か『狩場』だ。強さや名声、あるいは莫大な富を求める場所。
だが、冬真にとってのダンジョンは、もっとシンプルで、切実な意味しか持たない。
狸小路のアーケードを7丁目まで抜け、その先にある、観光客もめったに足を踏み入れない路地裏。そこに、彼の聖地はあった。
錆びかけたトタン屋根の、古いガレージを改装しただけの小さな店。看板には、無骨な字体でこう書かれている。
『カレーの鉄人 アイアン・カリー』
冬真は扉に手をかけ、ほんの少しだけ深呼吸をした。扉の向こう側から漏れ聞こえる換気扇の音。そして、微かに鼻腔をくすぐる、あの香り。それだけで、右肩の痛みも、足にまとわりつく疲労も、すうっと遠のいていく気がした。
「―――いらっしゃい」
カウンターの向こう側、寸胴鍋をかき混ぜる逞しい腕を止め、店主の熊岸が顔を上げた。元探索者だったという、熊のような大男。その顔に刻まれた古い傷跡が、ぶっきらぼうな声に妙な説得力を与えている。
「……どうも」
冬真は会釈だけして、いつもの席――カウンターの一番奥の、鍋がよく見える席に腰を下ろした。メニューは見ない。頼むものは、いつも決まっている。
「チキン、辛さ5番で。ライスは普通」
「あいよ」
熊岸が手際よく調理を始めるのを、冬真はじっと見つめる。
素揚げされた野菜たちが、熱い油の中で踊るように色を変えていく様。小さなフライパンで、十数種類のスパイスが乾煎りされ、芳醇な香りを立ち上らせる様。そして、土鍋に注がれた秘伝のスープが、煮えたぎりながら全ての具材を受け入れていく様。
それは、彼がダンジョンで見るどんな魔法よりも、神秘的で完成された儀式に見えた。
やがて、その一杯は冬真の目の前に置かれた。
焦げ茶色のスープの海に、鮮やかな野菜たちが島のように浮かんでいる。完璧な半熟に茹でられた卵。黄金色の皮を纏ったチキンレッグ。そして、それら全てを祝福するかのように立ち上る、複雑で、深く、抗いがたいスパイスの湯気。
それは、世界そのものの縮図のようだった。
冬真はスプーンを手に取り、まずはスープを一口。
舌の上に、ガツンとスパイスの衝撃が走る。次いで、鶏と野菜の旨味が溶け込んだ、どこまでも深いコクと甘みが追いかけてくる。そして最後に、唐辛子の心地よい辛さが、喉の奥を熱く通り過ぎていく。
―――ああ、これだ。
全身の細胞が、歓喜の声を上げるのがわかる。ダンジョンで冷え切った身体の芯から、じんわりと熱が灯っていく。疲労も、痛みも、この一口が全て浄化していく。
骨からほろりと崩れるチキン。その繊維の一本一本に、スパイスの宇宙が染み込んでいる。ライスをスープに浸せば、米の一粒一粒が至福の味を吸い上げて、口の中で幸せにほどけていく。
無言で、一心不乱に、冬真は食べ続けた。
俺にとって、ダンジョンとは、この一杯に辿り着くための、長くて暗い参道にすぎない。
強さも名声もいらない。世界を救うなんて柄でもない。
ただ、この一杯が、明日も食べたい。
そのために必要なだけの稼ぎを、あの薄暗い迷宮から拾ってくる。
俺にとって、この街で生きることは、そういうことだ。
空になった土鍋の底をスプーンで軽くかきながら、冬真は満足のため息をついた。
窓の外では、札幌の短い夏の夜が、静かに更けていく。




