エピローグ
小学6年生の夏休み、溜め込んだ宿題に目を背けて遊びほうけた最終日。それが、俺が最後に見た元の世界の光景だった。
はっきりとしないぼやけた視界から見える光の正体を、毛布で埋もれた体を動かすことで漸く確かめることができた。頭に置いてあった生ぬるいタオルを乱雑に払い除けると、すぐそばで控えていた見慣れた従者が俺の顔を確かめるようにして駆け寄って来る。
そいつがつけている香水の香りと混じる鼻につく獣臭さ。おぼつかない視界でそいつの顔を下から覗き込めば頭に生えている大きな獣のような耳。それを見れば今俺を悩ませている茹だるような熱も、ときおり思い出す元いた世界のことなども、どうでもいいように思えてくる。
そうだ、俺はこの耳と垂れ下がっているであろう尻尾をどうにかしなければ、安心など得られないのだ。
一国の王子として生を受けたであろうと、今の自分と元の世界の自分があやふやで終始ここはどこだと言う気の触れた子供など王になれるわけがない。
俺の父であるヨムドガルド王は3つ年下の腹違いの弟を王太子とし、第一王子である俺は離宮へと追いやられた。
失敗作を産んだ母も俺と離宮へと追いやられたが誹謗中傷に耐えかねて心を病み幽閉されている。
そうして7歳になったとき、元の世界の記憶と今の自分が分けられるようになり現実を見られるようになった。7歳の今自分とこの体で過ごした12歳から成長した自分が体の中でせめぎ合っているが、やることは変わらない。失礼にならないくらいの対外的なマナーと、お偉い様の傀儡になれるくらいのほんの少しの教養。それを済ませれば継承権などない邪魔者はお飾りという名の空気となる。俺としてはそれでよかったと思えたし、そこそこまで生きていられたらそれでよかった。
そんな王族らしからぬ甘ったれた考えを吹き飛ばしたのが14歳の時に開かれた各国の重役を正体した、周辺各国の中で一番力を持っている国の王子のお披露目という『友好的な』パーティーだった。表向きは友好的なパーティーだが主役の人柄によってひしめき合う国同士の関係なんて簡単に変わってしまう。
特に最近は遥か東に位置する獣人の国が力をつけ始めているという。目を合わせ足を揃えて睨み合うのではなく今は利害で結ばれるべき。
そしてそのために策を練ることこそが、このパーティーでの本題だと思われていたのに、何を思ったのか王は周辺国だけでなく獣人の国をも招待したのだ。
その国は獣人の国から遠い西に位置し獣人というものが団結したときの恐ろしさについて無知といっていいほどの関係上、住人たちは獣人を奴隷と思っている者がほとんどだ。実際、奴隷は人間より獣人の方が多いと聞く。元々その土地で暮らしていた獣人を数々の武功をあげ奴隷にしていったという誉高き歴史が存在するのがそれに拍車をかけていた。
それに王は憂いでいたとは聞いていたが。
それで自身の息子のお披露目にわざわざ獣人を招待するのはいかがなものか。
実際にそういったことを口にする者はいなかったが会場の空気がそれを物語っていた。
友好的という皮を被った大人の探り合い。その空気がただ嫌で会場から少し離れた庭園へと足を踏み入れた。近くに誰もいないところで休みたかった。
その国の財力を表すような豪華絢爛な庭園は大人ならばゆったりと歩けるのだろうが、子供にとっては迷路のように入り組んだ庭は垣根から頭の先端を出すので精一杯。視界いっぱいに緑を押さえながら妙にくねくねと入り曲がった道を右へ左へと日を避けながら歩いていく。
そうして、開けた場所に着いたところで漸く足を止めることができた。
そこで、あの化け物に出会った。
木陰で休んでいる俺に真っ直ぐやってくる1人の大男。従者も何もつけずにただこちらへと向かって来た。
それが噂の獣人だと気づいた時にはもう目の前で。
俺の身長の倍以上上から覗き込んでくる爛々とした紅い目とそれを覆う薄暗い金髪。そして漂ってくる強い香水の香りと時折混じる吐きそうになるほどの獣くささ。その無機質な表情からは何も感じられずにただただ怖かった。
いつまでそうしていただろう。救いを求めているのに誰も助けには来ない。視界の端で従者と目の前の獣の連れらしき人影が言い争っているのが見えるが目を逸らそうとするたびに目の前の獣は大袈裟に体を動かし意識を強制的に戻してくる。
従者は一体何をしている。どうして目の前の獣は何も言わない。
そう思えば思うほど呼吸は浅くなり空気が滑っていく音が大きくなる。その情けない呼吸音と心臓の大袈裟な動きを確かめながらなけなしのプライドで立っていると獣は俺の首元に顔を埋めて囁いた。
「必ず迎えにいく」
腹に響くような重いハスキーボイス。それからどう帰ったのかは覚えていない。
数日間ベットに篭りきりだったと後から聞いたのはその時連れて来ていた従者を解雇した後だった。
それから3年後、我が国とあの獣がいる獣人の国との戦争が始まった。




