『川』に呑まれる前に
川に気を付けろ。
それがこの国での認識だった。
理由は単純。
死者が生者を引きずり込むからだ。
あの世とこの世を繋ぐ川。
死の瀬戸際に「三途の川が見えた」という言葉はもう古いのだ。
川に不用意に近づいてはならない。
それが昼の二時から三十分の間。
全国の川が一斉に冷気を帯び、霊気を帯びてこの世ならざる場所へと繋がる。
「……ッ」
昼の二時前。
私たちは急ぎ帰り支度をしていた。
子どもたちが夏休みに入り、久しぶりに山中の川に遊びに来たのだが、遊びに夢中で二時に近づいていたことに気づいていなかったのだ。
「早くしなさいッ」
私は半ば悲鳴じみた言葉を子供たちに投げかけていた。
二人はまだ六歳と四歳。
『川』の危険をまだ理解していない二人は、のんびりと服を着替えていた。
川岸から離れれば問題ないとは言え、それでもその光景は恐ろしいものだ。
SNSで見たことがあるが、まさにこの世の者ではない存在。
今はもうしんと静まり返っている川の周辺全て。
肌寒い感覚と悍ましい感覚が同時に身体の奥深くに刻み込まれていた。
死が目の前に迫っている。
それを直感し、私はより焦る。
二人は呑気に服を着替えるばかり。
私は荷物を片付けて、夫に急いでそれらを運んでもらっている。
生者の物すらも呑み込む川の参列。
所持品を失って途方に暮れる動画も多く見たことがある。
「早くしなさいって言ってるのッ!」
再度叫ぶ私。
ビクッと震える二人。
言い過ぎていることは自覚している。
それでも、これから起こることを考えると身の毛がよだつのだ。
腕時計を確認する。
残り五分。
周囲に冷気が漂い始め、霊感の無い私でも霊気が充満してきていることが解る。
身体の奥深くを撫でまわされるような感覚。覗かれているような感覚さえする。
残りの荷物はたいして必要のないもの。
私は二人を担いで慌てて岸を離れた。
声が聞こえる。
泣き叫ぶような、呪い殺すような、面白おかしく嗤うような声。
その声を背後で聞いて、私は背筋にゾッとするような感覚を覚えた。
子どもたちが急に怯えだし、耳を塞ぐ。
六歳の息子は涙を流し。
四歳の娘は私に抱き着いてきた。
背中に死を感じる。
悍ましい感覚が後ろから近づいてくるのが解る。
時計を見る。
いつの間にか一分を切っていた。
身体が重い。
脚が動かない。
道を上り、岸を出るまであと数メートル。
夫が駆けつけてきて、私を抱えるようにして一緒に走る。
「きゃっ」
倒れた。
見ると、脚を掴まれていた。
姿は見えない。
けれど手形が見える。
私の手首をつかむ、見えない手が。
「幸子ッ」
夫が叫ぶ。
「いいから子供たちをッ」
そう言って子供たちを慌てて夫に手渡した。
私の言葉に従って子供たちを受け取る夫。
「行きなさいッ」
そう叫ぶと、夫は岸から離れた。
安堵したのもつかの間。
ズルズルと這いずってくる大小さまざまな手。
私の身体を縛り付けるようにして。
「……ッ」
「ママッ」
息子が叫んだ。
と同時に、私は川へと引きずられていく。
けもの道を下り、石河原を進んで。
「……ひっ」
川の底からいずる者。
黒く歪んだ恐ろしい存在が無限に。
私を見て、ほくそ笑んでいた。
「幸子ッ」
「「ママッ」」
振り返り、三人の顔を見た。
みんな歪んだ顔をしている。酷い顔だった。
私がそうさせている。私が。
「ごめんなさい……ッ」
涙を流し、私はそう叫ぶほかなかった。
川へと引きずり込まれていく。
呑まれて――。
「はいはーい、亡者さんたち、そこまででーす」
若い声が聞こえた。
振り向くと、十代そこらの女性だった。
「はいチーズ」
おそらく棒付きキャンディだろう。
彼女はそれを口にくわえながら、カメラを取り出してパシャリと一枚。
その光に当てられて、歪んだ存在は怯んだ。
「ケンちゃん」
彼女の陰から犬が一匹出て来た。
何の変哲もない普通の柴犬。
けれどその首には注連縄があった。
威嚇をして、そして大きく吠える。
「ワオンッ!!」
途端に広がる衝撃波。
私の身体を通り抜けたそれ。
たちまち私を縛り付けていた大小の手が消えていった。
「あ」
「走って」
柴犬がもう一度吼えた。
私は走る。
それこそ命を賭して走る。
後ろは振り返らない。
全力で、家族のいるところにまで走った。
背後でまた鳴き声。そして大きな光り。
「幸子ッ」
「「ママッ」」
三人の腕の中に飛び込んだ。
子どもたちは腕の中でわんわん泣いている。
夫も私を思いきり抱き締めてくれた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
私はそう言うしかなかった。
私は生きている。
家族と共にいる。
「良かった良かった。大変だったねえ」
そう言って後ろからやって来る女の子。
雰囲気にそぐわない、気だるげな少女。
川岸から柴犬と一緒に出て、私の傍まで来た。
「あ、ありがとうッ。本当に感謝して――」
「救済料十万円ね」
持っていたカメラをポイッと川岸へと捨てて、『川』へと流していた。
「じゅ、十万?」
夫が目を点にしてそう言った。
「うん、あんたらみたいなおバカさんからお金を貰うの」
口にくわえたキャンディをチュパチュパ舐めて。
「命を失うよりは安いでしょ?」
パチンと指を鳴らすと、置かれた荷物から夫と私の財布が出てきて、中の計十万円の諭吉が飛んでいく。
それを手にして丁寧に数えて、彼女はにっこり。
「毎度あり」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
去ろうとする彼女に声を掛ける夫。
「それはあんまりじゃないか?」
少しイライラを露にして、彼女に食い下がる。
「あんまりじゃないよ? 救った私に対価を払うのは当然じゃん」
「それはそれとして態度というものが――」
「じゃあ見殺しにした方が良かった? 少なくとも、他の奴らはお金を失ったことに怒りは出さなかったけど」
「お金どうこうじゃないッ」
「あなた、もういいよ」
「けどなあッ」
怒鳴る夫に、子供たちが不安がる。
「命の恩人なの。それ以上彼女に当たらないで」
子どもたちをあやしながらそう言った。
それを見て溜飲を下げたのか。
「……そうだな。すまない」
素直に謝った。
「うんうん、素敵な家族愛」
彼女は頷きながらそう言うが。
「助けてくれてありがとう。とても感謝してます」
私は頭を下げた。
そう言うと、彼女は言葉を詰まらせて。
「次からは気を付けるように」
声を少し裏返らせて彼女は踵を返した。
その後ろをついていく柴犬。
空気に溶け込むようにスッと姿が掻き消えた
「……不思議な子だったな」
「そうね。それに可愛かったわね」
「ねえママ、私は?」
「沙苗も可愛いわ。素敵よ」
「えへへ~♪」
娘の頭を撫でながら、私は川を見た。
いくつかの荷物が『川』に呑まれて消えてしまったが、私たちは生きている。
それを一番に喜ぶべきだろう。
『川』から現れた恐ろしい存在。
思い出すだけでも震えてしまう。
私は、息子と娘、夫をもう一度抱きしめた。
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【集】我が家の隣には神様が居る
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