第三話 毒は薬 中編
郵便局を一歩出る。木漏れ日が目に入って、少しだけ目を瞑る。再び目を開けると、彼の目の前には凪が立っていた。魔法の世界だというのに、彼女の衣装や持ち物はどこか近代的だ。ピンク色の髪は、緑ばかりの森にはいささか目立つはずだが調和を崩していない。仕事のはずだ。だけど、少し胸の奥が締め付けられる。
「何? 見惚れてんの? さっさとエドワードさんの所に向かうよ」
「見惚れてないよ」
「それはそれで腹立つな」
凪はムスッとした顔でこちらを見つめる。この胸の締め付けは何だろう。同じ感覚は遠くの過去にあった、あの締め付けと似ている。恋愛?はもっと鮮やかだ。今のこれは静かな締め付けだ。何か、何か、何か。雨木は首を振る。そうだ。これから起こるのは、もっと楽しいことなんだ。今は考えなくていいんだと言い聞かせる。
「行こう、僕の初仕事だ」
「せいぜい遅れないように、新人くん」
サイドポーチを撫でる。ここにはハコが入っている。ヴィドから渡された今日の仕事分。ハコの中身は先ほど開けた物らしく、これを届けるのが今回の仕事だ。雨木の装備は森で動きやすい格好に変わっていた。ヴィドは何でも作れると言われるほど器用で、雨木が今着ているものはほとんどが彼のお手製だ。月蜘蛛と黒蚕の糸で編まれた衣服は内側に様々な薬品を入れることができ、いざという時に使うらしい。雪水鹿の皮で作られたサイドポーチは、魔力がこもった千年大鷲の羽がついているおかげで重さをほとんど感じさせない。そして、サイドポーチの中にはあのダルマのお守りも入っている。
雨木の衣服も、凪の衣服も素材は同じらしい。凪はヴィドに自分好みのデザインを要求したらしく、雨木に対しても好きなデザインがあれば仕立て直すと伝えられている。だけど、雨木はその衣服を見た瞬間、この衣服を着続けると決めていた。自分の衣装を見ている雨木をよそに、郵便局の玄関では羽山とヴィドが彼らの出発を見守っていた。
「さすがヴィド。雨木の体格にピッタリじゃないか」
「この郵便局の道具係を何年やっていると思っているんだ。手慣れたものだよ」
普段はどちらかというと物静かな雰囲気なヴィドだが、自分の製品を語るときは少しだけ活発になっていた。羽山から聞かされていたが、自分の仕事に誇りがあるということだから好きなだけ喋らせてやってくれとのことらしい。衣服を持ってきた時はびっくりするほど語られたものだ。
「じゃあ行ってきます」
雨木は手を振って凪の背中を追いかけた。エドワードという薬の魔法使いに荷物を届けること、それが彼の初仕事。凪は彼が自身の側に来たのを確認し、祈るように両手を握った。言葉を紡ぎ始めると、彼女の髪が重力に逆らうように少しだけ浮きだつ。
「森よ森 茨の道はここにある オークの木漏れを咲かす 子供達の元へ」
森の一部分の草木が掻き分けられ、凪は進んでいく。そんな木漏れ日が差し込む道を、凪の後ろについていくように雨木は歩く。見上げると見たことのない鳥たちが毛繕いをして、下を見ると地上でモグラが群れで寝ていたり、後ろを振り向くと歩いていたはずの道はどんどん無くなっていく。
「凪、聞きたいこと滅茶苦茶あるんだけど」
「どしたぁ?」
随分と間の抜けた声だった。
「これさ、道無くなってるけど凪ならわかるの?」
「わかるよ、雨木もいずれは慣れる。あんたが書いた契約書あっただろ?」
一瞬血の気が引いた。どの契約書だ?話した事は、やはり不味かったのかと雨木は思考するが杞憂だった。
「書いたね」
「あれの中に郵便局員として雇うから、この道を使っていいっていう事書いてたんだ。道は刻まれた印を持つものしか使うことができない。見えないだろうけど、私もあんたも体の中に印を持っている。それによって、この目的地への近道を使うことができるんだ。便利だろ?」
「近道なんだ。じゃあエドワードっていう人の住んでる場所って実際はかなり遠いんだ」
凪は待ってましたとばかりに後ろ歩きに切り替える。
「驚くなよ、行き先はドイツだ」
「まじかよ」
思わず素で反応してしまう。日本からドイツまで徒歩で行く事は不可能だ。海がある。飛行機を使わなければ辿り着くのは非常に困難なはずだ。それを森を歩くだけでいくことが本当にできるのだろうか。
「周り見てごらん。そろそろのはず」
雨木は指示通りに周りを見渡す。真っ直ぐに立っていたはずの木々が歪み始めていた。それだけではない。吹く風が強くなって、日本で見られるような広葉樹から初めて見る樹木に生えている木が変わっていく。一歩けば、自分が今踏みしめている大地が日本ではないことを理解させた。空気の色合いも次第に変化していった。
「もしかして……もう?」
「そう、見えてきた。あそこがエドワードさんの家」
見上げると、一本の巨大な樹木の上に一軒の家があった。丸みを帯びたフォルム、三角のものも一般的に近い四角形の様々な形があった。郵便局と似たように森に溶け込むことを最優先しているようそうだ。雨木の前にひらひらと一枚の葉が落ちてくる。葉はすでに主人から離れた筈なのに、強い生命力を宿った水々しさを蓄えていた。
「こんな巨木、日本では見たことない」
枝の先は一体どこまで続いているのか、道のように太い枝は森全体に巡っているようにも見えた。そして森の柱となって今鎮座しているようにも見える。日本ならきっと御神木として祀られるのだろうか。雨木は落ちた葉を拾い上げ、ポケットに突っ込んだ。
「そうだろうね。さっさとエドワードさんに荷物を届けるよ」
「どこから入るのこれ? 木登り?」
「そんなわけないでしょ。そこに精霊がいるの見えない?」
目を凝らすと、木の目の前に犬がいて雨木たちのことを見つめていた。二人はその犬のもとに行く。目の前に来ると犬は甘えるように凪に体を擦りつけているが、雨木に対しては睨んでいた。犬は雨木の匂いを嗅いで鼻を抑える。
「ねぇリリー、エドワードさんのところに連れて行ってもらえる?」
「この男は? あまり好きじゃない匂いだ」
「こいつは雨木、新しい郵便局員だよ。エドワードさんにはいつもお世話になってるし、荷物を届けるのと挨拶も兼ねて今日はここに来たんだ」
「あぁ新人か。じゃあ案内しよう。ついてくるといい」
リリーは雨木を睨みながらも空中を歩き始めた。凪はその後ろについていく。彼女の歩いた跡、うっすらだが透明な階段が見える。雨木は恐る恐る足を踏み出すと、確かな質量があってしっかり踏み締めることができた。凪はあっという間に登ってしまい、雨木は道がわからなくなって次はどこに進めばいいのかわからなくなってしまう。リリーは雨木の元に戻って、しっかりついてくるようにと先導した。
「新人、この道は私かエドワードしか見つけられない。あまり遅くなると空中に放り出されるぞ」
リリーの毛並みは光り輝いていた。犬種はゴールデンレトリバーだろうか。だが、薄茶色の毛は重力や風に関係ない何かによって流れている。思わず手に取りそうになった。
「リリーの毛並みは綺麗だね。触ってもいい?」
「ダメだ。私に触れていいのはエドワードだけだ。触れたら噛み殺す」
殺気のようなものは感じないが、それでも彼女から放たれる気高さを前に、雨木は出しかけていた手を引っ込める。先に待っていた凪は木の上で小鳥と戯れていた。雨木を送り届けた後、リリーは元の場所に戻った。
「凪です。エドワードさん、入りますよ」
雨木の目は、床まで伸びた長い金色の髪に吸い寄せられる。太陽の光を浴びて透けているそれを携えた彼は本を読んでいた。二人に気がついた彼は顔をこちらにゆっくりと向ける。
「ようこそ、凪。そして、雨木透くん」
雨木が初めて出会う魔法使い、エドワードは静かに本を閉じた。