第ニ話 空は始まる 後編
部屋から出てきたのは見覚えのあるピンク色の髪の女性、凪春香だった。あっけに取られる雨木の袖を、海斗は引きちぎるが如く引っ張っていた。
「だ、大丈夫だ。海斗。彼女は知り合いだ」
海斗は雨木の声でようやく引っ張るのをやめるが、凪のことを睨み続けている。
「凪さん……いや、海斗、悪いけど今日は帰ってくれるかな? 埋め合わせはきちんとする」
「その方が良さそうか。じゃあ、また今度」
視線を外さずに後退りするが、凪は海斗を逃すまいと声をかける。
「待ちなよ。雨木ってちゃんと友達いるんだ。せっかくだしさ、私にも紹介してよ」
まずい。雨木は海斗に魔法の郵便局に決まった事を話してしまっている。もし、海斗に話していることがバレているのなら、自分の身もそうだが彼の身も危ないのではないか。あまりに迂闊だった。雨木は試しとばかりに口にしてしまったことを後悔した。思考をめぐらせる中、紙パックのジュースを吸いながら凪は雨木の返事を待っている。
「ねぇ」
「わかった。取り敢えず中で話そう。彼についてはまた今度紹介するから」
「……ふーん。まぁいいや。じゃあ名前だけ教えてよ。私は凪春香、君は?」
海斗は静かに見つめる。真顔に近い表情、彼のそんな顔を見のは初めてだった。
「海斗、大曲海斗だ。凪さん」
「海斗くんね、随分と掃除道具が似合う大学生って覚えておくよ」
何かわからないが酷いことを言っている気がした。雨木が反論しようとすると、優しく肩を叩かれた。
「じゃあ、雨木。また今度。彼女さんにもよろしくね」
「って、彼女じゃない」
海斗はすぐにドアを通り過ぎ、アパートから離れていく。彼が一瞬、凪に顔を向ける。どんな表情をしていたのか、雨木には見ることができなかった。
「雨木、入りなよ」
海斗の姿が消えそうになると、凪は雨木の視線を手で遮った。ニタついた笑顔はいささか腹立たしい。ダウナーな雰囲気を纏う彼女を部屋に押しやり、買ったばかりの掃除道具を床に放り投げる。
「なんでここにいるんですか。迎えは明日の夕方では?」
飲み物を取り出そうと冷蔵庫を開けるべくしゃがむ。その瞬間、凪は首に腕を回してきた。
「そんなに警戒しなくても、今日は君の家に泊まりに来ただけだよ。聞くと同い年みたいだし仲良くしようよ」
「はぁ?同い年?!?」
勢いよく振り向いたせいで、雨木はその端正な顔立ちを正面から見てしまった。だが、衝撃は確かだ。言動が羽山やヴィドに対して自身にはかなりフランクなように感じていた。自分よりも身長も高く、大人びているために余計に彼は勘違いしていた。彼女の子供じみた行動は年頃の女性であることを明らかにする。
「そ、だからタメでいいよ。羽山さんの前とかだとどうしてもかしこまっちゃうけど、気軽に話せる人が欲しかったんだ。タメ口でよろ」
「わかったよ。いや、それよりも」
普通に会話しているが、彼女は魔法界に帰ったはずだ。雨木はふと我に帰り、凪に問う。
「やっぱり、なんでここにいるんだ? 帰ったんじゃないの」
凪は頭を掻きながらようやく彼から離れる。
「いや〜帰ったらさ、羽山さんが書類を渡してきてくれって言ってきてさ。あとついでに答えれなかった疑問点も答えておいでって命令されちゃったわけ。鍵は大家さんに雨木の彼女ですって言ったら簡単に貸してくれたよ」
「大家さん何やってんだ。で、書類は?」
彼女はコンビニ弁当で散らかった机を指差す。書類の中にはシェアハウス関連の内容が記載されていた。歪んだ間取り、図面の長さは違うのに数値上は同じの寸法、聞いたことも無いような住所という、あって無いような情報だ。
「さっき迎えに来るって言ったでしょ?あれって君がこっちに住んでもらうためのものなんだ。第一、君に選択肢が無いことはわかっていると思うけど」
「いや、どこにあるのかわからない場所に住めないだろ。結局この住所はどこだ」
「琴吹郵便局の裏、これで大丈夫でしょ。だからさっさと荷物をまとめるよ。明日の早朝には出発するから」
あっけに取られている雨木をよそに、凪は次々と溜まり切ったゴミをまとめ始めていた。放置されて異臭を放つ生ごみに時折、鼻をつまんで次々と膨れ上がったゴミ袋を量産しようとしていた。彼女が疑問に答えてこいと指示を受けていたことを雨木は思い出す。
「なぁ、凪」
「魔術ってのは、魔法って結局何なんだ?」
凪は一つ目のゴミ袋を玄関に投げた。
「魔術はこっちでいう科学技術。精霊や妖精、自然現象の理を媒介にした道具を使って発動させるもの。経験や知識は必要だけど使えない人はいない。例えば―」
彼女は懐から札を取り出したが、あ、と言ってすぐに戻してしまう。
「こっちでは魔術も魔法も無闇やたらに使っちゃダメだったんだ。久しぶりに来るから忘れちゃってたよ。まぁでも魔術は大体わかったかな」
「そうだね。大体わかった。じゃあ魔法は?」
「魔法は奇跡。精霊も妖精も何も関係なく力を行使できる。魔術によってもその起源は全く解明されていないし、魔法使いと呼ばれる本人たちも力の本質をわかっていないと思う」
雨木は飲みかけだった缶ジュースを飲み干し、ゴミ袋に投げ入れる。
「随分と不完全な存在なんだな。魔法使いってのは」
「魔法自体が不安定なものだからね。ってかあんた酒も煙草もやってんの?酒はいいけど、向こうの煙草はこっちみたいにフィルターとか無いからキツイよ。一度吸ったことあるけど、あれは吸うもんじゃない」
「煙草は吸ってない。火を点けて置いてるだけ」
凪は近くにあった煙草の箱を拾い上げ、雨木に投げつける。
「わけわかんないことしてんじゃねぇよ。さっさと片づけて」
「はいはい、なんだか夜逃げみたいだ」
「あんた、家族は ?引っ越しとか伝えなくていいの?」
雨木は酒瓶を台所へと次々と流していく。詰まりかけの排水溝は音を立てて、注がれ続ける液体を吐き出そうとしていた。新品も古いものも躊躇せずに彼は注ぎ続けた。
「俺を心配してくれる人はいないよ。凪が気にすることじゃない。さっさと懐かしい準備だ。で、準備終わったらすぐに行ってもいい?」
「いいけど、そんなに急がなくてもいいよ」
「僕が行きたいんだよ。子供の頃に憧れた魔法の世界にこれから住むんだ。ワクワクしないほうがおかしいだろ」
「そこまでいいもんじゃ無いけどね〜それにしても」
手を止めた凪は、今度は近くに置いてあったゴミ袋を雨木に投げつける。
「強がってる割に悲しみに満ちた瞳をしてるじゃん」
「君もね」
それ以降の会話は少なく、ゴミも荷物も次々と詰め込んでいく。ゴミを捨てた後、残ったのは大きなリュック一つだけだ。これから旅に出る。ほんとは違うが似たようなものだろう。雨木は部屋の清掃が終わった後、スーツを部屋の角にかけた。持って行かなくてもいいのか。凪は彼に問うが、雨木は首を振る。
「あれは友人から借りたんだ。ほんとは直接お礼を言うべきだけど、もういいや」
「そう、じゃあそろそろ出ようか」
凪は扉を開けて夜風に当たっている。雨木は部屋を振り返る。引っ越して数か月でまた引っ越し、随分と短いスパンだ。4か月前からだと考えられない、あっけない幕切れ。自分の運の乱降下に呆れるほどだ。だけど別にどうでもいい。
だけど、部屋を出る時は少しだけ感情が揺れた。そして彼は伝えた。
「ありがとうございました」
部屋に一礼し、雨木は扉を閉めた。