第二話 空は始まる 前編
ベッドから降りると、羽山は凪に指示を出した。
「彼を出口まで送ってやってくれ」
「はい」
凪は羽山と数秒互いを見つめた後、階下に雨木を送り出す。階段を降りる途中、様々な苔の生えた壁を見ながら不思議に思う。苔が生えるぐらいなら、湿気が多くてもおかしくない。ただ、部屋の温度は適温に保たれている。これらの苔も、もしかしたら自身の知らない種類なのかもしれないと雨木は考える。
階下へ降りると、受付のような場所が出迎える。黒い手袋を着けた初老の男性が新聞を読んでおり、雨木たちを見つけると手招きをする。
「目覚めたようだね、雨木くん。こちらにおいで」
誘われるがまま、雨木は男性が座っているカウンターに向かう。
「私はヴィド。この郵便局で必要なものを作っている。先ほど、凪くんから君の名前は聞いたんだが、羽山と何を話したんだい?」
「それはーー」
雨木は羽山と話したことをそのまま彼に伝える。ヴィドは頷きながら話を聞き、自身の作業服の中から一つのストラップを取り出した。
「それなら、これを持っておきなさい。お守りだ。万能ではないが、君を微力ながらも守ってくれる」
雨木は達磨がデフォルメされたストラップを受け取った。柔和な雰囲気を醸し出すデザインだ。
「ありがとうございます」
扉は木製で重厚な感触。現代日本では中々出会うことのない代物だ。雨木はさっきまでいた建物を振り返る。自分が今立っている森の中に、溶け込むどころか一部として取り込まれているような建築物だ。必ずしも真っ直ぐに作らずに、外観に関しては流れのままという言葉が妥当だろう。
凪に連れられて雨木は森を出る。草が生い茂っている道だったが、先行する凪が歩けば勝手に道を開けてくれていた。彼女の歩くスピードは微妙に速く、必死についていかないと雨木の背丈以上もある雑草に飲み込まれてしまいそうだった。息も苦しくなり始めた頃、見慣れた公園の裏山に出た。雨木は近くのフェンスにもたれかかり、一息つく。一方の凪は表情一つ変えずに話す。
「じゃあ明日の夕方に迎えに来るから、こっちで泊まる準備しておいてね」
帰ろうとする凪を慌てて止める。
「待って、一言お礼を言わせてくれ。ありがとう、君のおかげで命拾いした」
「見返り」
「それは?」
凪は淡々と答える。
「あなたもこちら側の人間になった。ルールとして何かお礼をされたら見返りを渡すのが礼儀だよ。だから期待してるよ、後輩」
雨木の耳元で甘い声とピンクの髪が薙ぐ。
「命の見返りをさ」
じゃあねと言わんばかりに手を振って、草むらの中に凪は消えた。雨木には、少々刺激の強い仕草だった。一人残され、彼はその場からしばらく動くことができなかった。
彼女と別れた後、雨木はまだ日が高い今日をどう潰すかを悩んでいた。せっかくだし、自分の事を唯一心配してくれていた友人にお礼でも言っておこうかと思って連絡する。すると、大学生である大曲 海斗は即レスしてきた。
『お、やったな! おめでと! じゃあ今日もう授業無いし、今から高校ん時行ってた食堂行こうぜ! 丁度おやつの時間だしな!』
『ありがと、了解。三時半には店に着くと思う』
『あいー』
変わらないやり取りをしながら、食堂へ向かう。日差しが強いこの日は、喉の渇きが鬱陶しかった。
店の前では、海斗がスマホを弄っていた。雨木との再会は久しぶりだが、髪色が黒から金髪に変わっている。大学デビューだろうか。雨木が近づくと、にこやかにこちらに手を振る。成績が良かった彼が地元の大学に残っていたのは、友人の少ない雨木にとっては幸運だった。
海斗はいつも笑っていて、SNSのくだらない投稿を雨木に見せていた。この店はそんな高校生活最後の日常を過ごした場所でもある。懐かしい。まだ半年も経っていないのに感慨にふける。店は相変わらず寂れた看板や曇ったガラスで覆われた食品サンプル棚にも関わらず、昼時には人が多く集まる飯の美味い店だ。
「よー久しぶり」
海斗はもたれかかっていた柱から器用に体をくねらせて雨木に向き合う。指でさっさと中に入ろうぜと急かしてくるので、雨木も彼に続いて中に入る。お昼時を過ぎていたからか、他の客はいなかった。
「おばちゃん! 菓子セット二つ!」
「透くんと、海斗くんじゃない。って海斗くんは髪染めたの? 似合ってないわ」
「銀さん、別にいいじゃないですか、奥座らせて貰いますね」
二人は席につく。
「はいはい。菓子セットのドリンクは透くんがコーヒーで、海斗くんがオレンジジュースだったわね」
「はい! おねしゃーす」
海斗が銀さんと楽しそうに会話している。
「いつも通りだ」
「なんか言った?」
「いや」
雨木は血みどろで、魔法がかかった昨日の事を思い出していた。自身が書いた契約書の一つには何も書いていなかった。一番最初に書いたあの紙の内容。羽山が言っていたのは、こちら側で口外しないようにとのこと。魔法が本当なら、目の前の海斗にそもそも話すことができないのだろうか。
気になる。雨木は自分に起きた奇妙な経験を確かめるには、これが一番手っ取り早いと考えた。銀さんが厨房の奥に行ったことを確かめ、彼は切り出す。
「海斗」
「お、どこに就職決まったの?」
真剣な表情で口を動かす。
「魔法の郵便局。就職先はそこに決まった」
話すことができる。雨木はその事実が意外だった。まさか、あの契約書は本当に白紙だった?海斗に悟らせないように思考を巡らす。一方、海斗は口を尖らせて眉間に皺を寄せて水を飲む。
「雨木、ちょっと就活で疲れたんか。とりあえず、どんな経緯でその郵便局に入ることになったのか教えてくれるか?」
「あぁ、それはー」
雨木は昨日起きた事を全て海斗に話した。海斗は頷きはしつつも、信じていない様子が丸わかりだ。
「なるほど、うん。状況はこうだな。お前は昨日、腹を刺された。それが目を覚ますと郵便局で治療されていた。で、その郵便局の人に社員にならないかと誘われた」
海斗は明後日の方向を見ていた。そして、僕以上に真剣な表情を浮かべる。
「今日はお菓子を食べたら帰ろう。お前はさっさと帰って寝た方がいい。まぁ日は昇ってるけど。それか、警察に行こうか」
「なんで警察?」
「俺は友人が詐欺に遭ってるかもしれないって考えると流石に警察に相談したほうがいいと思うんだ。ましてや、俺らはまだ何も知らない若造だ。簡単に騙されちまうだろう」
「いや、詐欺って」
海斗は首を横に振る。
「全部は言わなくていい。無理すんな。お前とは腐れ縁だ。お前の事はよーく知ってる」
「別に無理はしてない」
「そうだ。部屋が汚いと心が乱れているとは、よく聞く話だ。食べたらまずはお前の部屋に行こう。途中で100均に寄って、掃除をするんだ。いくらでも付き合うぜ」
「うぅ、わかったよ。じゃあ食べたら僕の部屋に行くか」
銀さんが持ってきたお菓子セットを食べた。お菓子セットを食べている間は、海斗の大学生活の話を聞いた。典型的な大学生の生活をしていて、雨木は少し寂しさに似た感情を覚える。だが彼は決して表面には出さずにコーヒーを啜る。食事の後、会計をしようとしたら海斗は前回払ってくれたからと支払いを譲らなかった。
彼らは手に幾つかの掃除道具を持って、雨木の部屋に向かう。しかし、彼の部屋が見えた途端、雨木は足を止めた。電気がついていた。日中、明るいのにも関わらず煌々と部屋から光が漏れている。昨夜の出来事を思い出しても、戸締りはしたはずだ。記憶に混濁はない。雨木は手元からスマホを取り出し、いつでも電話をかけれるように準備した。
「海斗、マジで警察呼ぶかも。部屋に誰かいるかもしれない」
「嘘やん。どうする?」
「勘違いかもしれないから入る。ただ、海斗は下で待ってて。何かあったら警察を頼む」
海斗が何か話そうとしているのを聞かず、雨木は部屋に入ろうと二階に向かう。しかし、雨木の腕を海斗が掴んだ。
「おい、待て。俺も行く。何かあったら二人がかりの方がましだろ」
雨木は昨夜のことがフラッシュバックする。もう彼の頭の中では多くのドーパミンが生成されていた。友人を巻き込みたくない、だが昨日の事件は恐怖であったのも確か。彼が悩んでいると痺れを切らして海斗が階段を昇り始めた。
「お、おい。待ってくれ」
小声で声をかけるが、海斗は階段を昇り切ってしまった。雨木も続く。
「大丈夫だ。お前も知ってるはずだが、俺は合気道やってるから犯人なんてけちょんけちょんにしてやるさ。それに、お前の勘違いかもしれないんだろ。昔から思い込みが激しいところあったからな~きっと大丈夫だって」
「あーわかった。じゃあ行くか。俺が先に入るからな。海斗はドア裏の死角に居といてくれ」
「りょ」
汗ばむ手で雨木はゆっくりとドアノブを回す。鍵は閉まっている。戸締りがきちんとされていたようだった。
『ガサっ』
安心しそうになっていた二人に、緊張が走る。確実に何かが家の中で動く音がした。異変を察知した海斗はすぐにでも電話をかけようとしていた。その瞬間、雨木が握っていたドアノブがゆっくりと回転した。扉から咄嗟に二人は離れる。半開きになったドアから人の手が現れ、気だるげな表情を見せながらその人物は二人の前に姿を現した。