第八話 見ずは炎となる 前編
明るい。日が昇っている。雨木の隣にはブラキオサウルスが寝ていて、撫でると可愛い寝言のような鳴き声を言いながら擦り寄ってくる。今日は金曜日。琴吹郵便局では普通に土日は休みだ。休日って何すればいいのだろうかとか、朝ごはんの匂いが漂ってきたとか、雨木は寝ぼけた頭のまま少し早く起きた体を頑張って起こす。
雨木は朝ごはんを食べながら、この一週間を思い返していた。フリーターとしてずっと生きていくのかもしれないと考えていた矢先に巻き込まれた一連の事件。人生の大きな転機。このまま一生、元の世界に戻らずに魔法界で暮らすのだろうか。暮らしていけるのだろうか。そんな事を考えていた。
「まずは仕事だな」
シェアハウスから郵便局に行くと、カウンターで羽山が誰かと談笑していた。羽山の後ろには、凪が生まれたての子鹿みたいに足を震わせて隠れている。雨木もそのお客を見た瞬間、声が出てしまった。それは人の背丈ほどあるカマキリだった。ただし、左の鎌と右足の一部が無くなっており、片方の触覚も折れてしまっている。
「あ、おはよう。雨木。今日はこのお客さんの依頼を頼むよ」
羽山はカマキリに手を向ける。カマキリは雨木を見つけるとその場で軽く会釈をした。
「アドニスと申します。よろしくお願いします。雨木さん」
「こ、こちらこそ」
アドニスと名乗るカマキリは声色から見て男性だろう。雨木は彼が持つ気品の前に少しばかり緊張していた。一朝一夕では身につかないであろう、所作の重みを受け止める。
「アドニスさんには長年琴吹郵便局を使って頂いたんだけど、今日が最後の依頼になるんだ。凪は虫が苦手で今日は雨木に頼みたい。見たところあんたは大丈夫みたいだね」
「羽山さん、依頼の内容は私の口から」
「ん。よろしくお願いします」
アドニスはゆっくりと雨木に体を向ける。体が動かしづらそうだ。
「依頼は、私を龍涙の池まで運んでいただきたい。このような体では無事に辿り着くことは叶わず、こうして琴吹郵便局の助けを借りに来ました。どうぞよろしくお願いいたします」
「龍涙の池はここからかなり遠くの場所で危険も多い。だが私たちなら彼をすぐに届けられる。それに今日じゃないと間に合わないらしいからね。早速で悪いけど、行ってもらうよ」
「今日って言ってもヴィドさんから聞いた話だと、時間がズレるはずでは。大丈夫なんでしょうか」
「それについては問題無い」
ヴィドが奥の工房から出てきて説明を始めた。
「雨木、現実世界とエドワードの家に行った時に時間のズレは全くなかっただろう。あれは郵便局のお得意さんに対して特別な道を用意しているんだ。郵便局員が元の時刻に戻ってこられるようにしている魔術の応用だ。魔術が非常に複雑で数は用意できないのだがアドニスさんも以前から龍涙の池に行きたいと言っていたから、事前に用意しておいた。言葉はこれだ」
雨木はメモを受け取る。
「わかりました。問題は無さそうですね。では行きましょうアドニスさん」
「はい。歩く速さは遅いと思いますが、どうかご容赦を」
雨木はアドニスに笑顔を向けて扉を開け、龍涙の池に向かうことにした。
郵便局の出口となる扉の前に立ち、雨木は言葉を読もうとした。しかし、アドニスは彼を制止する。
「おそらく龍涙の池は大きな魔力の壁があるでしょう。私が少し前を歩きます。こう見えて数千年生きてますから、ある程度の魔術に対して理解はあります」
「わかりました。では道を開きます」
風が吹く。雨木は体が軽くなった気がした。
「龍の涙 森の雫 結べよ翼を 轟くなかれ ここに炎はない ここに泥はない」
森のざわめき方が違った。先の見えないほど遠くの道が一気に開き、来るものを拒むように向かい風が吹いていた。アドニスは雨木の少し前を歩き始め、雨木はアドニスの左側につく。アドニスは右の鎌をしきりに動かしながら歩いていた。
「どうかしましたか?」
「はは、すまない。ようやく龍涙の池に行くことができると思うと感慨深くてね。武者ぶるいのようなものだよ。そうそう。雨木さんは初めて見る顔だ。最近、琴吹郵便局に入ったのかい?」
先ほどとは違ってフランクな話し方になった。それでもアドニスが持つどこか紳士な雰囲気は崩れない。
「ほんの一週間前に入った新人です。そんな新人がアドニスさんの最後の配達を担当できるとは光栄です」
「謙遜しなくてもよい。次の世代を見ることができるだけで私は幸せだ。むしろ、ついてきてもらって申し訳ないと思っているほどだよ。本当は一人でやるべきなんだが、アクシデントが起こると今の体では解決することは難しい」
アドニスは先の無くなった左鎌を振るう。
「それ、どうしたんですか?」
「これかい。昔、とある精霊に襲われた際に持っていかれてね。私はカマキリだから治すこともできない。それからずっとこんな形だよ。それでも、意外と狩りはできる。今日までなんとか生きてこれたよ。そういう雨木さんもー」
アドニスは雨木の顔を覗き込み、どこか納得したような頷きを見せる。
「少し、昔話をしよう。私はカマキリだ。ただし普通のカマキリとは違って精霊が生まれるタイミングと重なった稀有な存在だ。だがそれゆえに鳥に狙われたり、他の精霊に襲われたりした。自分がなぜこんな目に遭わなければいけないのか。いつも世界が嫌いだった。優しい存在でも、出会った存在全てに対して試すようなことをした。若さ故の行動だっただろう」
アドニスは無いはずの鎌を舐める動作をする。
「ボロボロになりながらも、何とか日々を生きようとした。私の転機はとある湖で水を飲んでいた時だった。岩の上に白いカマキリがいた。花のように美しく、彼女に見惚れてしまった私は水で顔が濡れたまま岩の上に登った。間近で見ると、彼女の美しさは私の緑の体とは比べられない程で、その場から動けなくなったことを覚えている。そんな私に彼女はこう言った」
『もう一度会うことがあれば、あなたの本能を許しましょう』
「そのまま彼女は消えてしまった。私は気の遠くなるほど彼女を探したが見つからなかった。だがある日、誰かから琴吹郵便局経由で私に手紙が届いた。手紙の内容は彼女は龍涙の池にいるということだった。もう探すのもとっくに止めていたのだが、またとない機会だと思ってヴィドさんに依頼してね。こうして今に至る」
「その手紙の送り主は?」
「わからない。私たちカマキリは文字を書く文化は無い。それ故、誰かからのイタズラかもしれないとも考えた。だが、本能で感じるのだ。彼女はそこにいる」
アドニスは鎌を天高く上げ、白い月を指す。早朝だったはずだが、辺りはすでに暗くなり始めていた。日が沈むと月の光は彼らの目の前に降り立つ。光が降り注ぐ先に大きな池があり、池の周りは永年を過ぎた龍の遺体が囲む。そこが目的地、龍涙の池だった。




