第六話 咲くは海 前編
異国の海を見たことがない。日本と同じ潮の匂いかもしれない。だけど住んでいる人の生活、動物達の行動、魚達の行き先、それらがわずかな臭いの違いを生み出すのだろうか。雨木が実際に今嗅いでいる匂いは、明らかに磯臭さが少ない。
今回の配達はヴィドと一緒だった。以前、薬の魔法使いに配達依頼された荷物を炎の魔法使いに届けることが仕事だが、炎の魔法使いは少々癖の強い人物らしく彼が同行することになった。炎の魔法使いというもんだから、暑い場所に行くのかと思いきや彼らがいるのは正反対の海。ヴィド曰くお昼ご飯を食べてから、魔法使いのところに行くらしい。
「なんだかピクニックみたいですね」
今はレジャーシートを広げて、二人でサンドイッチを頬張っている。木の影かつ風もちょうど良く、緩やかな時間が流れている。気を抜くと寝てしまいそうだ。
「そうだな。体の調子は大丈夫か?まさか私の魔術の失敗を利用するとは思わなかった。体に何らかの影響が出てもおかしくない」
「元気ですよ。今日も配達に出れてますし。あーでも天気がいいんで眠たくなっちゃいそうです」
雨木の本音を言えば凪か羽山と来たかった気もする。しかし、女性陣二人は肌を焼きたくないとのことで、来てくれなかったのだ。だからこうして男二人でサンドイッチを頬張っている。
「聞いてもいいですか?」
「どうした」
「まずはお礼を。この前は助けてくださってありがとうございます。そして、聞きたいことは僕がいた空間のことです。あの場所からどうやって僕たちを助け出すことができたんですか?」
ヴィドは側にあった枝を拾い、砂浜に丸を二つ描く。一瞬で描いたはずなのだが、二つの円はどちらも真円に見えるほど綺麗に描かれていた。
「右が郵便局側、左が虚数空間側だ」
「あそこ虚数空間って言う場所なんですか?」
「そうだ。雨木くんは郵便局がどのように場所と場所を繋いでいるか知っているか?」
雨木は首を横に振ると、ヴィドは虚数空間の隣にもう一つ丸を描いた。
「私の魔術は道を作る魔術だ。昔は魔法だったが、今は魔術としてか使えない。そして、道を作る方法はこの虚数空間を使う。虚数空間自体は時間と空間の流れが曖昧。そのため、現実世界のある地点と地点を虚数空間で結び、虚数空間を飛ばすことで目的地に辿り着くことができる」
「時間の概念が曖昧だから、郵便局と目的地に時間のずれが生じる」
ヴィドは感心したように頷いた。
「飲み込みが早いな。そう、そして虚数空間自体は一つしかない。もし道の魔術を使えば本来であれば万物がそこに辿り着く。君の持っているお守りは高効率に練られた魔力が含まれていて、特定の言葉をカギに特別な道の魔術を発動できて虚数空間を通らずに目的地に辿り着ける。開発者である私の結論の魔術だ」
ヴィドは棒人間を郵便局側の丸内に描く。
「だから、通常の移動だけは可能なんだ。だけど、君の使った言葉は本来の自身の魔力を使う。だから君は魔力不足で虚数空間に飛ばされた。凪くんから話を聞いた時、虚数空間にいるとすぐにわかった。私はその空間につながる穴を無理やり開け、凪くんに引っ張り出してもらったんだよ。流石にかなりの魔力を持って行かれた」
雨木は最後のサンドイッチを飲み込んだ。
「じゃあ、僕がリックに連れ去られた時の場所は?」
「座標に無い場所は私にも検討がついていない。君がそこを出れた理由、リックが行き来できる理由、エドワードと協力して調べている。それと、リックの件で雨木くんは本当に不思議な人物だと思ったよ」
「不思議ですか」
「結果的に私が原因で君は怪我をしてしまったし、魔法界に連れてきてしまったようなものだ。だけど君は恨むどころか、羽山に聞いたところ感謝しているようだった。本心かい?」
「もう一つあります」
ヴィドは少し身構える。何を言われても受け止めるつもりだ。
「魔法を使えるんですよ。現代を生きる男子のロマンだと思いませんか」
「実際はそこまで派手じゃ無いだろう」
「使えることが重要です。別に気にしてません。それにーー」
雨木は木陰から出て伸びをした。潮風の匂いが鼻を透過していく。
「こんなにゆっくりできるのは初めてです。もう十分なんですよ」
「そうか、ありがとう」
「いや、お礼なんて」
「じゃあ今は気にしないでくれ。そろそろ行こう。炎の魔法使い、ミアも私の古い友人でね。少し変わったところがあるから気をつけて」
ヴィドはハコの中にレジャーシートとピクニックセットを片付けて海に向かう。慣れない砂浜に足を取られながら、雨木は彼の背中を追いかける。ヴィドは海に向かって右手を突き出す。洗練された動きで、一切の無駄がない。
「 避けよ 示せよ 酒はここに 血が流れるように 水を飲み干せ 」
ヴィドが言葉を唱えると、大きな音を轟かせ海が割れる。魚は逃げ惑い、カモメは海底に降り立つ。海は壁となり、道が形成された。元魔法使いの実力は伊達じゃないことは、雨木の目にとっても明らかだった。
「さぁ行こう、雨木くん。ミアはこの先だ」
海が割れた先には一軒の家が見える。木製の何の変哲もない家に、無数に貝や海藻がまとわりついており、一種の礁のようだった。海底だった道はいささか歩きにくい。真っ直ぐではないし、濡れている。かと思えば砂の部分はぬかるんでいる様子だ。できる限り岩の部分を飛び移りながら雨木は進む。前方では何食わぬ顔でヴィドが歩いていく。慣れるよとはいうが、それにしても速過ぎるのが奇妙だった。
ミアの家はドアノブが見当たらない。海の産物に埋め尽くされているため、窓らしき部分もほとんど埋まってしまっていた。雨木はそのわずかな隙間から、中を覗こうとするが暗くてよく見えない。あまり近づきすぎると、鋭利な貝殻で肌を傷つけてしまいそうだった。ヴィドはパッと見では絶対にわからない部分をノックする。軽快な木を叩く音がした。
扉は触れていないのに開き始める。雨木は住人と目が合う。一際目の大きい女性、それが炎の魔法使いミアの姿だった。




