第五話 稲穂は美しい 後編
彼らが向かったのは近くにあった田んぼだった。見渡す限りの田んぼだ。地平線が見える。ここは北海道か?雨木は日本で生まれてこの方、地平線というものを見たことがない。日本で地平線を見ることができる場所というのが、北海道ぐらいしか想像できなかった。
くだらない考えは意味が無かった。大地が生み出すのもは、全てを忘れそうな風景だった。雨木は息を飲む。稲穂はわずかな風でも揺れる。一粒一粒の米が織り成すのは黄金の絨毯であり、無限に続くようなその景色を前に雨木は足を止めていた。
青年はその中を歩いていく。彼は何かを探していた。数多の稲穂に囲まれるなか、何を探しているのかわからない。探している表情が真剣過ぎて雨木は声をかけることができなかった。しばらく経つと、青年の顔が明るくなった。彼が手に持っていたのは少し色の濃い淡い光を持つ稲穂だった。
「郵便局員さん、これもお願いします。数年に一つだけ取れる特別な稲穂なんです。これも届けて下さい」
「確かに受け取りました」
雨木は彼の目の前でハコに物を入れ、その場を後にしようとした。だが視線を感じた。
「何か?」
青年は困るように笑顔を浮かべた。
「いえいえ! よろしくお願いいたします」
「では、失礼します」
雨木が郵便局に戻ると羽山は荷物を確認する。この郵便局では、普通の郵便局とは違って荷物を一度確認することが必要となっている。羽山が危険性の無さを確認した後、雨木に返却した。
「雨木、彼の様子はどうだった?」
「特に何か感じたものはありません」
「……そうか、ならいい。この荷物なんだが、メモの場所に届けてくれるか。言葉はこれに書いてある」
含みのある言い方だと思ったが、雨木は言葉を記した紙を受け取って次の配達先に向かった。
送り先で待っていたのは初老の男性だった。依頼人から聞いていたのは彼女という文言であったと言うと、渋い顔をして家の中に案内してくれた。匂いのない家だ。
「母さん、郵便局員の人が来てくれたよ」
そこに居たのは寝たきりの老婆だった。青年の話していた内容と違う。だが―
「鈴木幸子さんですか?」
「はい。どなた?」
「琴吹郵便局の雨木です」
「あら、ということはあの人からの荷物かしら」
幸いにも対話は可能だった。雨木は荷物を取り出し、ベッドの側にあったテーブルにそっと乗せた。家を出ようとすると、彼女は呟く。
「今度の返信は随分と遅かったわね。雄一郎さん」
雨木が振り向くと、女性は悲哀に満ちた目で手紙を眺めていた。読み終わった後のタイミングを見計らって、雨木は郵便局員としての質問をした。
「返信はされますか?」
女性は稲穂を見つめていた。輝きはまだ失っていないが、女性が見つめる表情は変わらない。
「いいえ。もう終わりです。私が返信をしても、あの人が返すのは何十年も先なの。それなら今日でこのやりとりも終いにいたします。けど、雨木さん。一つ頼まれてくれるかしら」
「何でしょうか? 仕事なら依頼をお願いします。僕ができることなら別に必要ありませんが」
女性は口元を押さえて笑う。生気が少ない体でも、彼女の気品を感じさせる。長く生きた人生の重みだろう。
「ふふっ、可笑しな言い方をなさいますね。いえ、雨木さんへの個人的なお願いです。もし、次にあの人に会うことがあればこう伝えてくださいますか?」
女性が稲穂を撫でるとその輝きは失われ、元の普通の稲穂に戻ってしまった。
「あなたのおかげで私の病気は治りました。もう遠くに行ってしまうけど、あなたとの文通も楽しかった。ありがとうってお願いします」
「それって……」
「ここにもあまり長居するのはよくないでしょう。荷物を届けてくださってありがとう、雨木さん」
引き際だった。
「……失礼します」
雨木は初老の男性に見送られ、家を後にした。出迎えた時と違って、男性の顔はどこか安心した顔を浮かべていた。その違和感、雨木は自身の胸を掴む。だが仕事は終わりであり、これ以上顧客と関わるべきではない。雨木はその家を後にし、帰路についた。
羽山は寝ていた。机の上に突っ伏していた。今度は前と違ってソフィアは魔力に押しつぶされているわけではなさそうだった。ソフィアは確か、羽山の目覚めは悪いと言っていたかと雨木は一旦部屋に戻ろうとした。別の場所に住んでいるヴィドはともかく、同じシェアハウスに住んでいる凪のことが気がかりだ。裏から抜けようとすると、羽山は雨木の袖を掴んだ。
「おかえり」
「た、ただいまです。仕事完了しました。今日は他に何かありますか?」
ボサボサになった頭をかきながら羽山はあくびをする。
「いや?無いよ。それより何か聞きたいことがあるんじゃないか?」
見透かされていた。雨木は息を一つ吐く。
「最初の青年に郵便物を届けてすぐに僕は返信を相手に届けたはずです。ですが、相手は老婆だった。羽山さん、何を隠してるんですか」
「隠してるつもりは無いよ。ただ、おかしいと思わないかい?空間を捻じ曲げるほどの魔術に何かデメリットが無いのかと」
ため息が漏れる。そういうことか。雨木はカウンターの椅子に座った。
「琴吹郵便局の荷物は利用者にとって簡単に届くわけではない。魔法界は不安定だと言っただろう。不安定なもの同士を繋ぎ合わせようとすると、どうしても時間にズレが生じる。あの二人のやり取りには少なくとも数十年の差があるはずだ」
「魔術も万能ではないんですね」
「昨日のこともあったし、話すのは悩んだんだがちょうど良かったからな。あまり気にするなよ」
雨木は頬杖をついて羽山を見つめる。
「何がです? 僕は仕事をした。それだけですよ」
「ソフィアの真似? まぁ、気にしてないのならいい。全く、どこからその胆力というか鈍感さが生まれてくるのか」
羽山は髪を梳かしていた。ボサボサの髪はみるみる変わっていく。その様子を雨木は眺めていた。羽山がやがて手を止めると、柔和な笑顔を浮かべる。
「朝、色々話してくれてありがとう。何かあってもなくても遠慮なく相談してくれ。待ってるからな」
「そうですね。ありがとうございます。今日はもう戻ってもいいですか?凪の顔を見たいんですけど」
「あぁ、そうしてくれ。そうだ。今度少し変わったお客さんの依頼を行って貰うつもりだ。特別な場所に行くし、心に留めておいてくれ。じゃあお疲れさん」
「お疲れ様です」
羽山はカウンターに座って、ハコを一瞬で開いて中身を確認する。配達物は無く、料金もきちんと入っている。彼は今日も仕事をこなした。リックと呼ばれる者に再度襲われても、彼は何食わず平然としていた。まるでー
羽山は首を振る。彼はまだ話してないこともあるだろう。言い方を変えればこの琴吹郵便局に来るべくして来た存在だ。魔法界の住人が現代に生きるための依代として、今後も狙われるかもしれない。ならば、大人である自分たちが守る。今はそれでいいと言い聞かせる。だけど、彼女の心のざわめきは鎮まらなかった。
作者です。今日からまた更新を開始します。
これからもよろしくお願いいたします。




