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魂篝  作者: 此島
二章
7/31

 夜を震わせる山犬の遠吠えで目が覚めた。

「……おかあさん…?」

 我知らず口を衝いて出た言葉を、まだ寝惚けている亜也の頭はぼんやりと聞き流す。

 眠たい目を擦りながら身体を起こすと、焚き火が消えてしまっていた。眠りに落ちる前、玄鳥等が交代で火の番をする言っていたような記憶がうっすらとあるのだが、どうしたのだろうか。きょろきょろと周りへ顔を巡らせれば玄鳥は亜也の近くで片膝を立てて胡座を掻いたような姿勢で眠っているようであったし、反対側では伽角が身体を丸めて幽かな寝息を立てている。

 少しずつ働き出す思考と共に眠気に霞んでいた視界が明瞭になってゆく。仮に星月の無い夜だとしても明るい昼間と同じに物が見える亜也の眼には、山中の光景がはっきりと映っていた。

 何も変わりは無い。登って来た山道は眠りに就く前と変わらず続いているし、道の両側から手招くように不気味に枝を伸ばす居並ぶ太い樹々も、同じように其処にある。

 だが亜也の心は奇妙にざわめいていた。一体どうしてこんなに不安なのだろう。恐慌にも似た言い知れぬ緊張を抱いたまま、そわそわと周囲の様々に目を向ける。其処で漸く気が付いた。

 あの夫婦が道の端、山の奥を見つめて立っている。亜也と一緒で夜中にふと目が覚めてしまったのだろうか。それにしては何やら二人の様子はおかしく見えた。

 肩を後ろへ落とすみたいに腕をだらりと下げて、夫婦は樹々の狭間の闇を見つめている。喉の奥から絞り出された呻き声のような音が彼等のいる方で鳴っていた。

 耳が拾った音が何なのか。それを理解した瞬間、亜也は恐ろしさの余り凍り付いた。

 喋っているのだ。亜也には理解出来ない異形の声で。

 まさか、という言葉と、そんな、という想いが亜也の中で交錯する。

「あ……」

 恐怖がそろそろと背筋を這い上がり、脳裏に浮かんだ亡父の面影に助けを求める。

 零れ落ちた亜也の声に夫婦の発していた〝声〟がぴたりと止む。ぐるん。そんな擬音が相応しい動きで、夫婦が左右対称に亜也の方を振り向いた。

「おやおや、起きたのかい?可哀想にねえ」

「ほんとにねえ」

「寝ていれば、怖い思いもしなかったのにねえ」

「ほんとにねえ」

 歯の根が合わず、全身ががたがたと震え出す。恐怖に竦む亜也は自分で自分を抱き締めるようにしながら、己を捉える満月の如く丸い異形達の瞳から逃れようと立てもせぬままに後退った。

「まあ、いいかねえ。久し振りの獲物だ。嬲り殺しにしてから喰うというのも乙なものだしねえ」

「悲鳴もご馳走の内だよねえ」

「ましてや討魔士と、薄汚い人間の血を引く半妖だ。一層興が湧くというものだねえ」

「違いない、違いない」

 亜也と話をしていた時と同じ調子で言葉を話す夫婦の口が真っ赤に裂け、人の姿をしていた筈の風貌が見る間に妖異のそれへと変化してゆく。

 濡れた赤土の色をした肌。翠に光る真ん丸な眼。無理矢理引き伸ばしたような手足はひょろりと長く、ざんばらの髪は汚らしく縮れて鬣宜しく背面へ流れる。

 動けない亜也の視線の先で、さっきまで人間の男を模していた方が手足を大の字に広げて地面に潰れるように姿勢を低くした。

 獣染みた瞬発力を発揮し妖異が飛び掛かって来る。亜也は悲鳴を上げて思わず目を閉じた。


 割れんばかりの少女の悲鳴が山中に谺する。

 亜也が叫ぶより一拍早く動いていた玄鳥は高い位置で長い髪を結わえていた紐を解き、亜也へと躍り掛かる妖異の手首を狙って紐を振るった。重石の飾り玉を付けた丈夫な紐は狙い通り妖異に巻き付き、思い切り紐を引っ張る玄鳥の力に抗えずに妖異の身体は平石を擦って地を滑る。続け様にもう一匹が亜也へと跳ぶが、両足を腹に引き付けて跳ね起きる動作をそのまま攻撃へと変えた伽角の蹴りに横合いから吹き飛ばされ、ぎゃっ、と短い声を上げて道を転がった。

 分銅鎖代わりの髪紐を投げ捨て、玄鳥は即座に立ち上がって腰の二刀を抜く。

「…い、いつから!?」

「気付かない訳が無いだろう。それだけ妖気を振り撒いておきながら人間の振りが出来ているとでも思ったのか?騙し討ちを企むのなら、もっと上手く妖気を隠す事だな」

 尤も、次はあり得ないが。

 玄鳥は事態を呑み込めず茫然とする亜也を背中に、両手の二刀を十字に組んで構えた。刀身に施された破魔の呪が清冽な力を放ち、月光めいて蒼く輝く。

 旅装束を着込んだ二匹の妖異は苦々しげに、醜い顔を更に歪めた。着物は恐らく以前に奴等に喰われた旅人の物なのだろう。着物を取っておいて人を騙すのに用いるとは悪賢い妖異だ。

 枝葉の切れ目から仄かに射し込む月明かりが対峙する両者の間に仕切りを描く。細い光の線の向こう側で妖異がにたりと嗤った。

 潰れた四つん這いの体勢のまま、女物の着物を着た一匹が飛び出す。牙を剥いて跳躍した妖異の奥で嗤うもう一匹が上半身を起こし、胸が膨らむ程大きく息を吸い込んだ。

 何の工夫も無く躍り込んで来た方を玄鳥が斬り殺すのと同時に、妖異の叫びが呼子笛のように夜風を裂いた。呼応するかのように比べて一回り体躯の小さい同種の妖異が道の外側に五匹現れ、結界の外で同様の声を発して一斉に鳴き始める。

 共鳴し、反響した音が罅割れた結界を揺るがせた。妖異達の合唱が限界を迎えていた結界に最後の一押しを加える。がこん、と重い音を立てて要石が砕け、それを皮切りに結界が弾け飛ぶように崩壊した。

「お前達、飯の時間だぞ!」

 結界の弾けた境を越えて、妖異の群れが歓喜に喚く。

「伽角。奴等の相手を任せる。頼めるか?」

 へたり込んでいる亜也の傍に陣取って玄鳥は問う。伽角は少し戸惑った表情で一度玄鳥を見たが、直ぐに腰の針入れから針を三本抜き出し、

「…御意」

 と意気込みの皆無な声音で答え、撃ち出した。

 横へと振り抜かれた伽角の手から飛んだ針がそれぞれ別の妖異の眼球に突き刺さる。針を撃った瞬間には伽角は既に地を蹴り、針の刺さった眼を押さえる最も近い一匹に肉迫していた。

 拳帯に縫い取られた呪が淡い光を灯す。伽角は妖異の目前で身を翻し、回転の勢いを乗せてざんばら頭に手刀を叩き込んだ。小柄な身体の何処にそんな力があるのか、手刀を喰らった妖異の頭蓋が陥没する。

 続いて凄まじい速さで這い寄る一匹の手の甲を伽角は絶妙な合わせで踏み付ける。いやに響いた骨の折れる音に妖異が絶叫するが伽角は至って冷静に、空いている足を使って妖異の無防備な頭に回し蹴りを放った。

 その場に縫い止められたまま強烈な蹴りを喰らった妖異の首が奇怪な方向へ捻じ曲がり、口の端から血泡を吹いて絶命する。それを見た亜也が先刻とは別種の悲鳴を上げた。だが伽角は気に留めた様子も無く、正面から迫る妖異を視認して真横に飛び退き、挟撃を図り背後から襲い掛かって来た妖異の顔面を裏拳で打った。

 伽角の技は玄鳥の目から見ても実に鮮やかだった。身の熟しに無駄が無い。この分なら伽角に亜也の守りの方を任せても良かったかも知れない。まあ、伽角に妖異を任せたのには別の目論見もあるのでこれはこれでいいのだが。

 拳帯の呪をもろに受けた妖異の顔が破魔の霊力で灼け落ちる。ずるりと崩れた妖異にはもう目もくれず、残った隻眼に憤怒を燃やす妖異等へと伽角は走る。

 眼から引き抜いた針を妖異が力任せに伽角に投げるが、伽角は僅かに身体を捻るだけでそれを躱した。あの一瞬で完全に軌道を読み切るとは大したものだ。玄鳥は感心しつつ、此方に飛んで来た流れ弾ならぬ流れ針を刀で弾く。

「……お前…!?…おのれっ!!」

 仲間を次々に屠られ、人の振りをしていた妖異が煮え滾る怒りと憎悪を吐き捨てる。脇を抜こうとした一匹の襟首に針を撃つ伽角を睨み、怒り狂う妖異は宙へ跳んだ。

 透かさず伽角が反応し其方を見るが妖異は彼の頭上高くを飛び越えて行く。

 せめて一矢報いようという魂胆か。もしくは、此方の方が弱いと思われたのだろうか。舐められたものだ。

 長く尾を引く奇声を上げて妖異が襲い来る。着物の裾をはためかせながら其奴が降りて来るその着地点で待ち受けていた玄鳥は妖異が尖った爪を振るおうとする瞬間に合わせて懐に入り込み、右へ振り被った左手の刀を一閃させた。

 濡れそぼった落下音に残心を示すように其方を向く。事切れた妖異と、がたがたと震えながら足先の屍と玄鳥とを交互に見つめる亜也がいる。

「――従妖になる、というのはこういう事だ。この程度で怯えているようではまず務まらない」

 常に妖異との命の遣り取りがある、危険と隣り合わせの日々。付近に現れる妖異を恐れながら街や村で暮らすのとは違い、自らその渦中へ飛び込んで行く日常。

 自分を虐げた村の人間を見返してやりたい。動機はそれでも構わない。だが偶然目の前に討魔士が現れたからその従妖になりたいなどという安易な気持ちでは、到底やってはいけないだろう。従妖になったからといって、世間の侮蔑の眼から完全に逃れる事など不可能なのだから。

 玄鳥は突き放すように態と冷たく言い、血振りをした刀を鞘に納めた。

「…お手を煩わせて、申し訳ありませんでした」

 残った一匹を倒した伽角が此方へ歩いて来て、俯き、謝罪を口にする。丁寧に頭を下げる伽角をそれには及ばないと片手で留め、浄火の符を手に玄鳥は印を切った。

 闇を皓々と照らし出す青炎を目にして遂に緊張の糸が切れたのだろう。亜也の瞳からぽろぽろと大粒の涙が流れ落ちる。

 粛々と燃え上がる祓いの炎の爆ぜる音に混じる亜也の嗚咽が段々と大きくなる。亜也は妖異の死骸が燃え尽きた後も、暫くそうして泣き続けていた。

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