晴天に霾(つちふ)る(三十と一夜の短篇第46回)
ぴいよぴいよと泣く声が聞こえるので、「露」はそちらに行ってみました。そこには果たして「霙」がいて、ほろほろと涙の「雫」を「零」しているのでした。
「一体どうしたの?」
「どうしてわたしはみぞれなのかしら? 「雨」と「雪」が雑ったものだなんて、字面ではそうなんだ程度に思われても、実際お空から降ってくるのを見たら、「霙」なんて冷たくてびしゃびしゃしていてとうっとうしがられるわ。
雨冠の下は英で、英は綺麗なお花やはなびらの盛り上がった様子、転じて優れたものを表すはずなのに、わたしはちっとも冴えない。
あなたは朝「露」、夜「露」、ほかには良いお茶やお酒の名前に使われるから羨ましいわ」
「露」は困ったように溜息を吐きました。
「そりゃ自然のものを表すだけなら私だって文句はないですけど、「あらわす」、「あらわにする」意味もあるから、「暴露」なんて使い方されるのは楽しくない時もあります」
そこへ「霹」と「靂」と「霍」と「靃」が来て、「霙」に言いました。
「わたしたち、だいたい単独では使われない。「霹」と「靂」と併せてしか使われないのよ。「雷」の擬態語扱い」
「そうよ、わたしは本来「雨」に驚いて鳥が飛び立つ様を字にしたっていうのに、「霍乱」って病気の名前でしょ」
「わたしだって「靃」は隹が一つ増えて、雨の中、鳥の飛ぶ羽音を表す字なのに、忘れられている」
「霙」は自分の悩みは一人だけのものではないと気付きました。また、気象の言葉として使われている自分はまだ恵まれている方なのだと、思い直します。同じく気象を表す字でも滅多使われることがないと塞いでいる仲間たちがいます。「霈」や「霪」はながあめ、「霽」はあめやむ、晴れる、の意味がある風情ある素敵な字なのに。
「そうね、「霓」ちゃんは「にじ」の意味を持つって知らない人も多いもんね。「霓裳羽衣」って素敵な言葉があるけれど、「にじ」の鮮やかな色が「虹」で雄、暗いのが「霓」で雌と区別されるのも辛いわよね」
「電」と「需」と「震」と「雷」が通り掛かりました。「電」は澄ましており、「雷」は後ろで小さくなっています。
「漢字の生き方ってその時その時で変わるんだから仕方ないわよ。私だって稲妻や稲光の意味の字だったのに、「電」気の意味にあてられて、いろんなところで使われているわ。「需」だって経済用語に使われているじゃない。
「震」は元々「雷」で驚くとか、落「雷」で地響き、揺れるとか意味だから、ふるえる現象に使われているわ」
現在引っ張りだこの「電」に「雷」は居心地悪そうです。「需」は実はあんまり楽しくないので発言しました。
「よく使われるっていったって、単語が「需」要とか、限られているわあ。あたし詰まんない。あたしも「霊」もあまごいから生まれた字なのにさあ、「霊」もいい意味で使って欲しいって「零」していたわあ」
周りはぎょっとし、「電」はちょっといい気になり過ぎたかと、反省の色を見せました。
「私たちって元々空から何か降ってくることを表す「雨」が付く字ですもの、兄弟だわ」
「そうね、兄弟は親子と違う」
「需」はツンケンしていましたが、「電」の言葉に気持ちが治まったようです。作者も雨冠の漢字を擬人化して書くのにいささか飽きてきましたし、疲れました。雨冠の字を全部はとても書き切れません。
乾いた強い風がゴウと吹き、土埃を舞い上げました。パラパラと土が掛かります。みんなそれを払います。
「ああ、晴天に「霾」る」
春になって杉花粉や黄砂が飛ぶ前に、どうかもう少し「雪」が降ってくれないでしょうか。「雪」はすべてを「雪」いでくれます。
春には田畑に「雪」融けの水がなければいけません。春の「霞」も「靄」も冬らしい冬がなければなりません。
五里「霧」中で過しております。
参考にしたのは、我が家の辞典『字通』(白川静 平凡社)と『雨かんむり漢字読本』(円満字二郎 草思社)です。雨冠の漢字は全て書き切れませんでした。漢字ファンの皆様、悪しからずご了承ください。