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サトウキビ畑で捕まえて

作者: ビスマルク

僕は今なんだかすっごく寂しいんだ。でも、なんで“寂しい“のか分からないんだ。だから僕はみんなに僕の思い出を今から語ろうと思う。みんなが聞いてくれれば僕のこの気持ちも少しは和らぐんじゃないかと思うから。夜も更けて来たし、心に留めないで適当に聞き流してくれても良いからさ。でも起きててくれよ、決して寝るなんて真似はしちゃいけないぜ。

僕は高校生なんだけど学校の成績はとても悪いんだな。この前も三つの科目で赤点をとってしまったし長期休暇も補講で一杯になっちゃったのさ。でも学校の成績が悪いのがそのまま僕が頭が悪いということにつながるわけじゃないぜ。だって僕の学校はいわゆる進学校だからね。よその学校へ行けば僕は大方トップレベルの学生になるってこと。


僕は学生寮に入っているからさ、家族とは中々会えないんだけど、僕には兄がいてさ、それは海春って言うんだけど、根がひん曲がってんだな。やつはどうしようもないんだよ。この前の夏休みに帰省した時さ、ちょうど輝人が家にいない時にやつの部屋に入って見たんだよ。僕ってさ、人の部屋に入って粗探しするのが好きなんだな。するとだよ、本棚に僕が気になってた漫画本がずらっと並んでやがんだな。全部で54巻あるんだぜ。それが全部ズラーッと並んでやがんだな。僕はピーンときたね。あいつはまだ母さんに小遣いをもらってるってことをさ。大学生にもなるんだぜ、そんな奴がまだ母親に小遣いをもらって漫画本を買ってゲラゲラ笑ってるんだからな。世も末だよな。

それから僕は当たり前のように、その漫画の1から5巻を拝借して、家族に土産で買ってきた黒糖饅頭を食べながらそれを読んでたんだな。すると僕はなんだか気持ちよくなってきちゃって寝ちゃったんだな。僕は困ったことにいつでもどこでもすぐ寝ちゃう性質なんだ。夢の中で僕は好きな女の子とデートをしていたんだけどさ、そのデート中にドタドタ音がしてバン!と音がしたと思うと

「紫雲!てめえ!俺の漫画読んでんじゃねえ!」

って言う怒鳴り声で起きちまったんだよ。すっごくムカついたね。だって僕は好きな京子とデートをしてた最中だったからさ。(夢の中でね。)

僕は余裕たっぷりに言ったね、

「ああ、読んでるけど何?」ってね。

するとだよ、輝人のやつ、カチンと来たんだね。僕から漫画を取り返そうと猪みたいに突進してきやがんだよ。あいつは太ってるからな。迫力はあったよ。

僕は闘牛士みたいに突進してくる奴をひらっとかわそうとしたんだ。でも奴は前よりも体が大きくなっていて、(無駄飯だけは食うんだよ。奴は。)迫力に圧倒されちゃってね。

動転しちゃったんだな。かわすのが一瞬遅れてしまってね。僕は奴の突進をもろに食らって吹っ飛ばされて、モルタル造りの壁に吹っ飛ばされちゃったんだよ。

するとだよ、小指が、枝分かれしてるみたいに曲がっちまってんだな。僕はそんな自分の指をぼーっと見つめていてね、そして次第に涙が出て来たんだよ。それで奴に向かって泣きながら罵詈雑言を浴びせたんだ。

すると輝人のやつ僕の小指の異常に気づいたんだね。狼狽えちゃっって、パクパク口を開けてさ、新種の魚類かと思ったね。

すると奴はまずいと思ったのか、下の階にいた母さんを呼びに行った。おそらく事情を説明したんだろう。母が輝人に向かって怒鳴っているのが聞こえて来たね。

僕は天井を見上げて、最低な気分になったね。

海春の他に僕にはもう一人血を分けた兄妹がいるんだよ。それが杏里っていう僕の妹でね。すっごく可愛いんだこれが。全くどうやればあの両親からこんな天使みたいな子が生まれるのかなんて思うよ。あ、でも僕がシスコンっていうわけじゃないからな。それと僕は両親のことは尊敬はしていると世間体の為にもに言っておくよ。

妹はピアノを習ってるんだな。僕がまだ寮にいなかった頃は杏里がピアノを弾いているのをソファに腰掛けながら見つめていたんだな。幸せな時間だったよ。あれは。

でも習っている癖にそこまで上手くはないんだな。途中途中で音がつっかえたりするもんだからさ、もう少し真面目に練習しなさいと僕はお兄ちゃんらしく威厳を持った声音で言うとだよ、「うるさい、紫苑こそもう少し真面目に勉強したら」と返してくるんだよ。

全く口が悪いのはこの家族全員に通ずることなんだな。でも杏里が弾くベートヴェンなんかのピアノソナタはすっごく好きなんだ。水面を船頭が乗った船がゆっくりと進んでいくような雰囲気でさ。マイナスイオンが流れているんじゃないかと思ったりするんだよ。でも杏里は生まれつき体が悪くてね。よく入院を繰り返していたりしたんだ。僕はその度に杏里にくっついてやってね。学校の授業なんか二の次さ。お母さんはその度に僕にきつく叱ったけどさ、本当に大切なことだけを選んで僕は生きていく主義だからさ、聞く耳なんかもたなかった。そして、入院するっていうのはひどく退屈なもんだからね、トランプやおしゃべりなんかに付き合ってあげたんだ。でも付き合ってあげるのはいいんだけどさ、彼女をあまり興奮させないような付き合い方じゃないといけないからね、そこは骨を折ったところだと自分でも思うよ。

でね、杏里は口が悪いけど、ひどく怖がりなんだよ。面会の時間も終わって僕が帰ろうとする度に、

「幽霊が怖い」とか言い出すんだな。幽霊なんて不確かな話に真面目に付き合っても仕方ないからさ、僕はその度に、

「幽霊なんか出やしないさ。また明日来るからね、夜更かししないで早く寝るんだよ。」

って言ってやるんだ。

僕の通ってる学校の話に戻るんだけれども、僕の通ってる学校はマラソン大会があってね。あれは11月の冷える日だったな。

スタートを告げるピストルが乾いた宙に響いて男子みんなが一斉に勢いよく走り出したのを見て僕は絶望したよ。このマラソンのような無意味なことがあと六十年以上は続くのかと思うと、11月の寒さもどうでも良くなってくるほど、おかしな気分になるんだな。距離は確か3000メートルだったな。女子は2000メートルだった。全く男女平等とはよく言ったものさ。不平等なんて見る方の視点によっていくらでも生まれてくるものなんだからさ。僕はテスト勉強の疲れから顎を垂らしてブルドックみたいに、はあはあ言いながら走り続けたよ。でもトラックの内側にいる女子たちの前を通る時にはきちんと背筋を伸ばして、まるでプロのランナーみたいに大きなストライドで走ったね。でもあれは女子たちの笑い草になったに違いないね。だって僕は短足だからそんなに開いたら足がもぎれると思われていたんじゃないかと思うからさ。(でも決してチビではないんだぜ。)

そして、僕がペケにはならないような速度で走っていると、後ろから先頭集団が僕を抜かして行ったね。僕は、はあはあ言いながらそいつらの立派な背中をボーっと見つめて追走していたらさ、その集団のうちの一人が僕の方を振り返ってニヤッと笑ったんだよ。そいつは僕と寮で同室のジロー(二郎)ってやつなんだけど。

あいつの勝ち誇ったような顔、何度思い出しても背中のあたりがムズムズしてくるね。

なんだかあいつはいつも俺と勝負したがってるんだな。成績も同じくらい悪いからさ、

でもクラスの人気度でいったら僕とあいつは雲泥の差があるんだ。あいつは陰気だからさ、クラスじゃ人気がないんだ。だから僕がクラスで笑いをとったりなんかすると。寮室で、

「今日のギャグはいまいちだったぞ。第一間が悪い。」

とか、抜かしやがんだな。自分がM1の審査員かなんかになったつもりなんだろうな。きっと。でも教室では僕のギャク教室の隅の方でニタニタ笑ってくれるんだよ、素直じゃないんだな、要するに。


僕はもう視界がグルングルンし始めたよ。最後に〇〇くん頑張ってね!ってみんなに定型句を連呼される哀れなクソ野郎にはなりたくなかったからさ、そんな羽目に合うくらいならトラックでぶっ倒れて保健室に運ばれた方が何倍もマシだって思ったね。だって運んでくれる保健委員は京子ちゃんなんだからさ。僕は助平なんだな。要するに。でもこの学校には僕以上の助平がたくさんいるんだ。助平の巣窟なんて誰も好んで来たいとは思わないだろう。だから、学校はパンフレットにどれだけ自分の学校に助平が多いのかグラフで記載しておくべきだと思うよ。でも助平が多いのは生徒だけじゃないんだ。


《例えばこの前は、補講だったんだけど、補講が終わると沼川先生に職員室に来るように言われた。僕は授業に集中していなかったんだな。


「おい、沼川、集中しないと放学になるぞ。今日はずっと寮室で勉強してろ。」

僕が大人しく寮室で僕は勉強してると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。

ドアを開けてみると、立っていたのは権田先生だった。

「やあ。どうも先生。ご覧の通り、真面目に勉強していますよ。」

「沼川、そうか、頑張ってるな。」

先生はうん、うん頷きながら二段ベッドの下に座って、何やらコンビニ袋をガサガサやったかと思うと、僕にコーラの缶をくれたんだ。

「乾杯!やあどうだ高坂、勉強の調子は?」

「ふむ。まあまあですよ。悪くはないです。」

「なんだその中途半端な返事は?何か分からない問題あるか?」

「うーん、こことかですかね。」

先生は僕の隣に中腰になって僕が解いている問題集を覗いた。

どれどれ、そう言いながら、先生は僕のお尻を撫で撫でし始めたんだ。

「何するんですか、先生・・・。」そう言っても先生は尻を撫でるのをやめないんだな。

僕は突然だったんで急にドキドキし始めちゃってね。

そのまま僕は部屋を飛び出した。すごく怖くなっちゃったんだな。

その日みた夕焼けは黄色だったな。とにかく黄色に見えたんだよ。

本当にこの学校にはろくな生徒と先生がいないと思ったよ。》



ほとんどの男子がゴールし終わって残りの男子が僕含めた数人になった時に体育教師が僕に向かって、「おら!高坂!いつものクラスでの剽軽さはどこへ行った?それじゃ死人の顔つきだぞ!」とか叫んで罵ってくるんだな。全くなんでこんな最低の教師がいるのさ。日本の教員採用試験は性格に難しかない奴も採用しなきゃいけないほど教員不足に悩まされてるのかなって思ったね。体育教師は国語教師に見習って登場人物の心情を推測できるように再教育されてから教壇に立ってほしいと思ったね。あいつらはきっとセンター試験の小説なんか解かせたら落第点とるに決まってるね。本当だよ。

ようやくゴールしてトラックの内側にいる男子の方に戻ろうとした時、京子ちゃんと目があってね。すっごく自分が惨めな気分になったよ。京子ちゃんは僕が好きな同じクラスの子だよ。

ある日曜日、僕は久しぶりに外出した。同室のジローのアディダスのキャップを借りたんだ。秋なのに日差しが強い日だった。

喫茶店に入りカウンターに座ってジンジャーエールを頼んだよ。それも普通の頼み方じゃないんだな。日本人はジンジャーってerのスペルが入るけど、僕はジンジャエイルって言うんだ。ジンジャーエールという風に母音を伸ばさないんだな。それが通の発音だからね、覚えておくと格好がつくと思う。

店内にはボブディランのlike a rolling stoneが流れていた。彼ってほんっといい歌を歌うよ。サビにかかったところで一人の女性が店に入ってきた。驚いたことに彼女は僕の隣のカウンター席に座ったんだな。少し心臓の鼓動が早くなった気がした。少し年上っぽい美人だったんだな。

「あなた西武学園の生徒さん?」

びっくりしたよ。当たりなんだからな。

「うん、そうだけどどうしてわかったの?」

「だってこの前のマラソン大会で頑張って走ってたでしょ。私あれ見てたのよ。」

《なんてこった。あんな醜態を晒していたのをこの人にも見られていたのか。》

死にたくなったよ、僕は。僕はよく死にたくなるんだ。部屋に閉じこもってばかりいると過去の失敗が際限なく脳にあふれてきてもう過ぎたことをクヨクヨと永遠に考え続けてしまう癖があるんだな。僕には。この前そのことについて調べたらそれは発達障害って言うらしい。全く近頃は大したことでもないのに病名をつけて何か自分が欠陥品であるように思わせられている気がしてならないね。

「なんだか恥ずかしいとこ見られちゃったみたいだね。」

僕は子供がいたずらを咎められたみたいな照れ笑いを浮かべた。

「私の妹もあの学校に通っているのよ、」

これは驚いたね。いったい誰だろう。

「へえ君の妹じゃ多分美人なんだろうな。なんて娘だい?」

「早坂京子よ。」

《なんてこった。よりによって京子ちゃんのお姉さんだったのかい。》

「それはいいや。僕もうんと知ってる娘だもん。」

「もしかして京子と同じクラスなの?」

「うん、そうだよ。」

「まあ!なんて偶然なのかしら!なんだか嬉しいわ。京子はクラスではどう?」

「うーんそうだね。男の子からは人気があると思うよ。大人しいけどね。」

僕がそう言うと彼女は僕の目をじっと見つめてきた。だから僕は反射的に目をそらした。

「君ってすぐ目をそらすのね。どうして?」

「あまり人の目を見て喋ることが得意じゃないんだ。小さい頃からね。なんだか心を見透かされているような気がしてね。」

《本当は自分の濁った目を他人に見透かされているような気がするから嫌なんだな。

目が濁ってるやつって僕に言わせれば一発でわかるね。たとえ演技をして自分の目を濁ってないように振舞っても、いずれその嘘はバレるに決まってるんだな。でもごくたまにね、完璧に“演技“をするような奴もいるんだ。僕はそういう奴が怖くて怖くてたまらないね。

そう言う奴のことをなんて言うか知ってる?

サイコパスって言うんだ。

そういう演技をした奴に僕の好きな京子ちゃんを取られるかなんて思うと本当に夜も一睡もできないほどだよ。》


「要するに自意識過剰なのね。君ぐらいの年齢にはよくあることね。でも世界って君が思ってるほど君には興味がないのよ。たとえ明日君が死んでも、世界は何一つ変わりはしないで時計の針は回っていくんだもの。でもそう自分で言ってて確かになんだか悲しくなってくるわね。自分が死んでも世界は何一つ変わらないって。そりゃあ家族とかで悲しんでくれる人はいるでしょうけど、それ以外はね。」

「家族か。僕には家族というものはよくわからないんだ。僕には兄と妹がいるんだけど、僕は妹のことはとても愛しているんだけど、兄とは物心がついて以来反りが合わなくてね。」

「私は京子とはあまり喧嘩したことはないわよ。」

「そりゃああの子はすごく大人しいもん。家でもああいう感じなのかい?」

「ええ、一人で部屋にこもって絵を描いていることがほとんどよ。あとは読書をしたり、音楽を聴いているわね。あまりインターネットをやらないところがあの娘のいいところだとお姉ちゃんとしては思うわね。」

「僕が思った通りだよ、ネットに毒されていない人間ってのは雰囲気で分かるからね。」

「あなたは京子とはよく話すの?」

「いいや、中々話さないね。彼女は普段二、三人のクラスメイトと楽しそうにおしゃべりなんかしていたりするんだけど、それがすごく上品でね。キーキー言う甲高い笑い方じゃないんだな。ものすごく品があるんだよ。」

「でも京子はおしゃべりが好きよ。多分学校ではおしゃべりを聞く側に回る方が多いんじゃないかと思うけど、京子は自分で喋る方も好きだと思うわよ。」

「そうなのか。女の子っていうのは話を聞くより聞いてもらう方が好きだって何度か聞いたことがあるかもしれない。僕にも妹がいるんだけどね。面会に行った時に病室のベッドで何をしているのか僕の方をじーっと見ながら喋るんだけど、それがすごく楽しそうに見えるから、その通りなんだろうな。そして、僕がその話を熱心に聞いてやると一層喜んでいる風に見えるからね。」

「人の話を聞くのって誰にでも出来るようなことじゃないからね。人の幸せを喜んであげられる人が一番素敵だと私は思うんだけど、あなたは喜んであげられる人種に見えるわ。」

僕はそんなこと滅多に言われないからさ、すごく照れちゃってね、それで今現に照れてる自分を考えると照れちゃってね。とにかく照れたんだ。

「君の妹も私の妹と同じようなのね。幾つなの?」

彼女は続けて言った。

「まだ13なんだ。でも体が悪くてね。入院を繰り返しているんだ。いつもどこかへ行きたがるんだけど、それを叶えてやれないのがかわいそうで仕方なくてね。

「体が悪いの・・・可哀想に。」

彼女の可哀想は本当に心からの「可哀想」なんだな。決して演技じゃなかったね。

そんなことを言っているとドアが開いてカランカランとベルが鳴った。

「お姉ちゃん、お待たせ。」

「ああ、やっと来たの。」

驚いたことに僕の前に京子ちゃんが来た。

「あれ、高坂くん?こんなところで会うなんて。」

「やあ、どうも。」僕は帽子のツバを人差し指でクイッとあげて、気取った挨拶をした。

僕は自分が世界一いい男だと思ってるんだな。第一そういう風に思ってなきゃそんなキザな真似を易々とする輩はいないと思うし。

僕は良いところを見られたって思ったね。だって考えて見てごらんよ。一人で喫茶店に入ってジンジャエールを飲んでるところって結構様になってると思わないか?

なかなか僕の年齢ぐらいじゃあそんなに簡単にできることじゃないからね。僕はジンジャーエールに沈んだ氷をカランカランやったね。

そして悠然とポーズ(間)をとって言った。

「――――どうも。」ってね。“決まった“と思ったよ。同時に格好つけすぎたとも思ったね。だって京子ちゃん顔引きつってたからさ。

で、二言くらい交わしたらすぐに、

「じゃあ、私たちは行くからね。またどこかで会えると良いわね。」

と、言い残して彼女らは店を出ていっちまったよ。僕はいつもハンバーガーのピクルスを取って残すんだけど、ピクルスの気持ちが少しわかった気がしたよ。

僕はキャップを深くかぶり、キャップのつばを下げて喫茶店を後にした。胸のあたりが悲しい温度に下がった時僕はいつもこうする癖があったんだ。

それから国道沿いのシネマ座に入って映画を見ていると、杏里のことが気になって、映画の間、杏里のことばかり考えてしまったんだ。だから映画の内容はちっとも頭に入ってこなかったよ。評判が良い映画のはずだったんだけどね。我ながらシスコンだと思ったね。でもとにかく心配になったんだ。映画なんか観に来ないで、杏里の見舞いにでも行ってあげたら良かったと後悔した。杏里の病院は寮からだと四時間くらいかかるから僕が寮に二年前に入った前ほどには見舞いにいてあげてないんだ。ずっと入院しているってわけではないしね。入退院を繰り返しているんだ。

映画を見終わって、八時過ぎに寮に帰ると、鍵が閉まってたんだな。同室のジローは風呂に入ってる時、入口の鍵を閉めて置くんだ。誰もお前の風呂なんか覗きやしねえと何回も言ったんだけど直んないから、もう諦めたよ。僕はドアノブをガチャガチャ鳴らして、ドアを叩いて

「おい、開けろっ!」

って繰り返したよ。すると奴さんすぐに鍵を開けた。

「おう、帰ったか。」

ジローはバスタオルを貧相な体に巻いたまま僕を出迎えた。

「どうだったよ。休日は?」

「うん、悪くなかったよ。京子ちゃんにも会ったしな。」

「なに?早坂に会っただと?なんでだ?」

「お姉ちゃんとの待ち合わせの喫茶店に居てね、偶然。・・・・・・おい、そろそろ中へ入れてくれてもいいんじゃないか?」

「お、悪い悪い。」

部屋に入るとすぐ、アロマが焚いてあるのが分かったよ。アロマを焚くのは良いんだが、僕はあまり好きじゃない匂いのやつを奴さん焚くからさ。なかなか匂いが消えるまで僕は寝付けないんだな、だから僕は明日睡眠不足になると覚悟を決めたんだ。アロマを焚くんじゃない!とジローを怒鳴り散らしてもいいんだけどさ、奴さんとする喧嘩は長引くからね、ファストフードに行くほど簡単に出来るようなものじゃないんだ。

ドタドタとジローはバスルームへ戻ると、すぐジャイアンツのユニホームTシャツを着て出て来た。これは、最近奴の両親が送ってくれたもので、これ見よがしに僕に見せつけてくるんだな。僕は阪神ファンだから、引き裂いてやりたくもなったけど、それをやった翌日には僕は杏里と一緒に病院のベッドに寝ることになるなと思ったからやめたよ。威勢はいいけど、喧嘩は弱いんだ僕は。本当だよ。

「おい、なんで僕の机は乱れてんだ。」

そして、僕は机に立てておいた杏里の写真が入った写真立てが机上に伏されているのを見て、ムカついたんだ。それにコートとかをかけていたハンガーラックも乱れてたからね。

「・・・ああ、悠人の野郎が昼間遊びに来たんだ。お前に会いに来たんだろうが、あいにく俺しかいなかったから、あいつは俺とはあんまり仲良くないからな。でも二人部屋を訪ねに来て、目当ての一人がいないとわかるとすぐに帰るようじゃあ少し、ばつが悪いと思ったんだろうな。紳士ぶってんだ、あいつ。つまんねえ世間話を30分ばかしやって帰ったよ。そして、あいつは退屈を紛らわそうとお前の机のものを片っ端からいじり倒して行ったんだ。全く素直にお前がいないとわかった時点で帰ればよかったのによ。」

「あいつ、本当に手グセが悪いな。今度会ったらあいつの両手を縫い付けて悪さ出来ないようにしてやる。」

悠人っていうのは僕のクラスメイトでね。しかし、クラスじゃちょっとばかし浮いてるんだ。

奴のお父さんは政治家でね。民間の会社から受け取ったとされる賄賂問題で今時の人なんだ。だからクラスは奴のことをちょっとばかし省いているんだ。ここでの“ちょっとばかし“っていうのが肝心でね。それがこの学校の生徒が、どうしようもなくクソッタレ野郎の集まりだということの証でもあるんだ。

例えば悠人が五人1組のバスケットボールのチームのメンバーに入っていたとする。すると、そのチームのやつらは悠人がパスを要求しても滅多にボールをパスしてやらないんだ。でも、あいつらは進学校の学生だからね、バカじゃないんだ。五回に一回くらいはパスをしてやるんだ。そうすることによってそのゲームを見ている先生が気づかないようにしてるってことさ。全く、陰湿な奴らだろう。助平の集まりと陰湿な野郎の集まりさ。だから僕はこの学校が嫌いで、果たして卒業まで僕がこの学校に完全に嫌気を刺さないのか、ちょっぴり心配だね。


《これは、悠人が僕の部屋にあった杏里の写真立てを倒してであろう一ヶ月ほど経ったある朝の話で僕が良い気持ちで寝てるとね、何やら外から騒がしい音が聞こえてきて、目が覚めちゃったんだ。僕は朝から最低な気分になったね。僕は隕石が落ちたくらいの音じゃなかなか起きないんだけど、その時はなぜか目が覚めちゃったんだ。

気になって窓の外を見ると、たくさんの生徒が何かを囲うようにして騒いでいるんだ。その中心には、男の子がぐったりとアスファルとに倒れていた。その子の頭から真っ赤な血が飛び散ってアスファルトに滲んでたんだ。頭も変な方向に曲がってたしさ。

僕はアッという思いがしたよ。本当に時間の流れが止まった気がした。本当に驚いた時とかって、周りの草花含めた一切が活動をやめたような静けさになるんだな。


―死んでいたのは悠人だったんだな。

クラスメイトにお前は意気地なしだって言われて、教室から飛び降りたらお前を認めてやるっていうことになったらしい。そして悠人はここからなら屁でもないって息巻いたらしいんだ。実際奴が飛び降りた階は二階で、万が一骨折をするようなことはあっても相当なヘマをやらかさなけば到底死ぬような結果にはならないはずだったんだ。でも奴は窓の外の狭い足場から足を滑らせちゃったんだ。凍結していたんだな。その日の早朝はすっごく寒くてまだ乾いてなかったんだ。

クラスメイトは警察に事情聴取されて比喩じゃなく雷が落ちたように怒られていたよ。まあ、怒っても意味がないんだけどな。笑っちゃうね。》



でもそんな彼の置かれている状況と、奴が杏里の写真を倒したこととは関係ないからね。

僕は奴の両手をしっかり縫いつけることにするよ。

テレビを見ていたジローがこっちを振り返って言った。

「なあ紫雲、明日のベースボールの試合出てくんないか?学校対抗の。」

「何時からだい?」

「三時プレイボールだ。人数が足りなくてね。」

「ポジションはどこだい?」

「ライトだ。」

「なんだって!?ライト?」

「ああそうだ。不満か?」

「ああ、不満だね。ショートかサードあたりじゃないと格好がつかないじゃないか。君はどこなんだい?」

「僕はショートだが。代わってやろうか?」

「悪いな。」

「じゃあ今日はもう寝るぞ。俺は疲れてんだ。」

「ああ僕も今日はなんだか疲れたよ。」

そうして僕は寝支度をして床についた。アロマの匂いで寝付くのに苦労するかと思ったけど、その日に限ってはすぐ寝れたんだ。よっぽど疲れてたんだよ。僕は。


「紫雲、紫雲、起きろ。絶好のベースボール日和だ。」

翌朝、僕の背を揺すって起こすと、ジローはカーテンを開けて自然光を部屋いっぱいに取り入れた。窓の外の木にヒバリがとまって、こっちを見ていた。お前は早起きだねと視線をヒバリに返してやると、ヒバリは悠々と何処かへ飛んで行った。

体を起こすと洗面所の方にジローがいるのがわかった。

僕は前も言った通り、自分が世界一いい男だと思ってるんだけど、困ったことに僕と同じ部屋にも自分が世界一いい男だと思っている奴がいてね。まあ、ジローなんだけど。奴は朝の支度にすっごく時間がかかるんだ。奴さん、何をやっていると思う?奴はずっと鏡の前でに立って自分の気に入っている角度で鏡を見つめるんだ。ボディービルダーみたいにね。そして僕は、その光景を見るたびに憂鬱な気分になるんだ。本当だぜ?

「朝はもう食ったのか?」僕は洗面所にいる彼に向かって言った。

「いや、まだだ。ベースボールのチームのメンバーが食堂で待ってるから。一緒に食べることになってんだ。早く用意してくれ。」

「ああ、分かった。」僕は寝ぼけたまま洗面台へ向かった。


身支度を整え、食堂へ降りると、図体のでかいやつらが集まって居たよ。相撲の試合の方が向いてるんじゃないかと思ったね。

見覚えるのある顔がいて僕は思わず声をあげた。

「マッチョ!久しぶりだな。」

すると奴さんも嬉しそうに立ち上がって、

「おお、紫雲お前も今日ベースボールをやんのか?」

って言った。

「そういうことになっているよ。」

「そうか!じゃあ今日はよろしく頼むぜ。」

さらには女ったらしの藤田もいた。

「ピッチャーはどいつだ?」

するとやや間があって、ヒョロリと背の高いやつが立った。

「俺だ。」

「やあ、君か。」

「久しぶりだな」

「ああ。久しぶり。」

奴さんは僕を知っている風な様子だったけど、僕はこいつを知らなかったね。なんだか見たことのあるような気もするけれど、僕の知らないやつなのさ。しかし、ヒョロリさんは旧知の親友にでも会ったかのような、きつい目に似合わない、優しい微笑みで僕をチームに歓迎しようとしてくれているんだな。刹那、僕は

「お前、誰?」

って言いそうになったのを堪えたよ。

僕は“大人“だからさ、無駄に相手を傷つけることのないように適当に挨拶を返したんだな。


ゲームが三時きっかしに始まって僕たちのチームは後攻だったからね、僕はショートの守備位置についた。

しかし僕のチームのピッチャーの球は恐ろしく曲がるんだよ。まるでボールを自由自在に操ってるマジシャンみたいだったね。相手チームのバッターは次々に音楽をかけて、社交ダンスでも踊っているみたいに空振りしていったよ。愉快だったな。実に。でもその愉快なショーもすぐ終わった。

と言うのも、一回のツーアウトを取った時にさ、審判がマウンドの方へやって来て、なんだかヒョロリと喋ってんだな。ボークの注意かなと思ったよ。でも、違ったんだな。。だって、球審は片手を頭上に振り上げたかと思うと、それをダイヤモンドの外へ勢いよく振り下ろしたんだからな。それはピッチャー退場のジェスチャーだったんだよ。突然好投をしていたピッチャーが退場になったんだから何事かと思ったよ。

球審はマイクを使って言った。

「マッドボールの使用によりピッチャーを退場とします!」ってね。

クソ野郎!

チームのみんなは心の中でそう叫んだにちがいない。

マッドボールってのは、ボールに泥を塗ってよくボールが曲がるようにするための工夫なんだ。要するにあのヒョロリは反則をしていたんだな。

なんかおかしいとは思ったんだよ。あんなヒョロリがあんなに曲がるカーブやらフォークを投げられるのには神通力でもない限り不可能なことだと、少し考えればわかるはずだったんだ。しかしナインまでもが皆ヒョロリの小細工に騙されて居たんだからな。僕は頭に血が上っちゃってね!

トボトボとベンチに下がろうとするヒョロリの頭を叩こうとしたんだ。でも僕の平手は空を切ったんだ。だって僕とヒョロリとの身長差は20センチくらいあったからさ。

ますます腹が立ったけど、これ以上やると僕も退場を食らいかねないから大人しくナインのみんなが集まってるマウンドへと戻ったよ。僕は大人だからね。

「さあ、大変なことになったな。ピッチャー誰がやる?」

マッチョが言った。

「左バッターが続くし、左投げのやつがいいんじゃないか?」

背の低い坊主が言った。

「・・・・・・左投げのやつは俺だけか。じゃあ俺でいいか?」

マッチョはナインを見渡して自分自身を指差して言った。

「いいと思うよ。」僕は言った。マッチョがピッチャーをすることになった。

実際彼が投球練習をしているのを見るとようやくまとまなベースボールの試合ができると思ったよ。彼の球はキャッチャーミットにいい音を立てて吸い込まれていってたからね。

彼は見事最初のバッターを三振にすると、その次の回も次の回も三者凡退で打ち取ったよ。なにせ、マッチョは僕がこの学校で信頼する数少ない“本当“の友人だからね。言い忘れていたけど、結構ギャラリーもいてね、女の子たちなんかは誰かがいいプレーをするとキャーキャー言って騒いでるんだな。こういうところは僕の学校の女の子たちのいいところだと思うよ。盛り上がるからね。


その試合は僕たちのチームが三対一で勝ったけど、僕は全然活躍できなかったね。むしろ、足を引っ張ってしまった。

と言うのも、五回の裏にイージーなショートゴロをトンネルして後ろにそらしちゃったんだ。あれは焦ったね。でもイレギュラーバウンドしたんだ。あれはショートの名手である僕を持ってしても難しかった。その僕のプレーを見ていたギャラリーたちから笑いが起こった。みんなキーキー笑ってんだね。ベンチを見るとさっきの詐欺師ピッチャーも手を叩いて喜んでやがんだよ。奴のところにだけ、隕石でも直撃してくれないかと思ったね。

それに僕がエラーしたのは、昨日のアロマのせいもあるんじゃないかな。

僕は何にでも人のせいにするところがあるんだよ。

それは自分でも良くないところだと認めるんだけど、なかなか直んないんだな。“癖“ってやつは。


その一週間後ぐらいだったかな、一緒に野球のチームでプレイした藤田が部屋を訪ねてきたんだ。

「なあ、コート貸してくれないか?」ってやつは気だるそうに入ってきた。

「何でだ?」

「早坂と遊びに行くんだ。」

「何だってお前が京子ちゃんと遊びに行けるんだ?」

「―誘ったからさ。」

やつは助平が服を着て歩いているような奴だから、京子ちゃんに何かするかもしれない、そう考えると妙に不安になってきてね、

「おい、彼女にエラリークイーンの小説はもう全部読み終わったのか聞いてくれないか?」

僕は、彼女と前に同じクラスだった時、エラリークイーンの小説をよく読んでるのを見かけたんだ。

「そんなの自分で聞けばいいじゃないか。」

「何の映画を観に行くんだい?」

奴が言ったのは、世間で流行っているラブロマンスで、僕は反吐が出そうになったね、映画を観ながらずっと鼻の下を伸ばし続けるんだろうからな、映画を観終わった頃にはやつの顔はデートも中断になるほどの助平丸出しの顔になっているに違いない。

何も女の子とセクシーな関係にならなくたって心は通じ合わせられると僕は思う。

ところが奴ときたら女の子がどんな小説を読むのだとか、どんな音楽が好きなのとか、そんなことにはちっとも興味なんかないんだな。ただセクシーな関係を築ければ仲良くなれたと思ってやがんだ。全てにおいて勘違いしてんだ、奴は。

奴は自分の助平さをお得意の演技でうまい具合に隠すんだよ、奴と親しい関係になった子は何人かいたけど、どの子も奴の演技にうまい具合に騙されてしまったんだな。奴の本性がわかっていれば本気で親しい関係になろうとする女の子なんかいるはずないんだ。本当よ。

何で僕がそんな他人の痴情を知っているのかと言えば、実際に奴と親密な関係になった子が言ってたんだ。

「あの人すごくラブロマンスの映画に出てくる俳優みたいな甘い言葉を囁くのよ。最初は歯の浮くような感じはするんだけど、だんだんとあの人の目をじっと見つめているとすぅーっと心を許してしまうのよ。後悔してるわ。」ってね。

その子が言っていたように、奴の目だけは中々良いことを僕も認めないわけにはいかないんだな。西部劇に出てくるガンマンみたいな男らしい瞳をしてるんだよ。でもそれが羨ましいってわけではないからね。だってそれが万人に受けるかって言ったら違うからさ。

「あんまり夜遅くまで連れ回すんじゃないぞ」

「さあ、どうかな、それは向こうの様子次第ってとこもあるからな。」

奴は憎たらしい微笑を浮かべて言ったんだ。いやあ、僕はアドレナリンが一生分出ていたに違いない。かなり興奮しちゃってね、声を張り上げた。

「お前、京子ちゃんに変なことしたらぶっ飛ばしてやるからな!」

僕は自分の机を思いっきり蹴っ飛ばして凄んでみせた。でも奴は何でもない風に

「ああ、気をつける、気をつけるよ。」ってまるで僕のことなんか相手にでもしていない風にわざと繰り返して言ったんだ。ああもう僕は自分でも分からないくらいに興奮してしまってね。奴のことを思いっきり蹴っとばしたんだ。一応奴の腰のあたりに蹴りを食らわせることが出来たんだが、全然効かなかったみたいでね、奴は、

「おいおい、何だそのキックは?蚊でも止まったのかと思ったぜ。」

なんて煽ってくるもんだから、僕はおかわりのキックを無我夢中で食らわせたんだ。今回のキックは奴の太ももに当たったんだが、奴さんこれは本気で痛かったんだな。血が顔中に通い巡り始めたのがわかったよ。そのまま奴は、僕の腹に一発グーパンチを食らわせたんだ。悔しいことに僕も蚊の止まったパンチかと思ったよと言い返してやりたかったんだが、今回のは呼吸が一瞬できなくなるかと思ったほど、クリーンヒットしちまったんだ。僕は床に渦巻くって、これほど惨めな気持ちになったことはあったか走馬灯の中を探したけど、今回のが一番惨めだったな。本当だよ。僕は渦巻くりながら奴がドアを開けて部屋から出ていく音を聞いていた。死ぬんじゃないかと思った。でもこのまま死んでしまっても良いような気がした。


時計は昼の十二時を回っていた。

「クソ野郎!」って僕は叫んだ。

僕は元気がないときでも少し寝れば元気が出てくるんだな。そこが何とも言えない取り柄でもあるんだけど。僕は自分を落ち着けるためにリルケの詩集を本棚から引っ張りだして、読み進めた。と言っても目が活字の上をツルツルと滑っていってちっとも頭の中に入ってきやしないんだ。詩集を読むのをやめてテレビをつけて、テレビをつけても流星群が近いうちに見れるとか、下らないことばっかりやっていて。むしろどんどん心が冷え込んでいくのが分かるんだ。

これには困ったと思ったね。寝れば元気が出るはずの僕なのに。

すると、何となく僕は地方に住む友達に電話をかけることにしたんだ。人の声を無性に聞きたくなったんだ。僕は電話帳を取り出して友人に電話をかけた。

「やあ、ジローか。久しぶりじゃないか。どうだ新しい学校は?」

「何だ紫雲か。なかなか上手くやってるよ。学校のレベルも高くないしさ。勉強が楽だ。

今数学では関数の勉強をしてるんだよ。」

「今関数の授業だって?おいおい、僕たちそれは中学生の時に習った奴じゃないか。」

「そうなんだよ、まったくびっくりするぜ。でもさらに驚いたことに関数でつまづいている生徒が大勢いるんだな。でも僕は関数なんか流石に中学生レベルだと思っていたから、頭を抱えて教科書を見ているクラスの奴らに軽く指南してやるとだよ、奴ら目の色を変えて僕のことを褒めちぎるんだよ。」

お前がクラスの上位じゃあ学校のレベルは海底のように低いんだろうな。」

「おいおい、何だお前は俺に喧嘩をふっかけるために電話をかけてきたのか?なら生憎俺はお前みたいに暇じゃないんだ。これからクラスの奴らとサイクリングに行かなきゃならんし。」

「サイクリングだって!イギリスの貴婦人にでもなったつもりかい!お前のところは九州だぞ!小舟の操縦の練習でもしとけよ!」

全く僕は何だかこんな言い争いをしたかったわけじゃないんだが、もう口が止まらなかったんだよ。

「それにお前に関数を分かりやすく教えてやったのは俺だろう!お前もそいつらと何も変わりはしないただの間抜けさ!いや!自分が間抜けだと気づいていないんだから、そいつらよりタチが悪いかも知れないね!」

「クソ野郎!」

奴さん、一言言い去って電話を切りやがった。

奴のダミ声が耳がジンジン響いていた。最低な気分だった。


翌朝僕が食堂に朝飯を食いに行こうとすると、ドアノブのところに僕がヒョロリに貸したコートがかかってた。僕はそれをそのまま着て食堂へ降りた。

食堂では京子ちゃんが友達と楽しそうに話してんだ。全く女の子ってほんとわかんないよ。男の趣味は悪かったんだなと思った。


その次の一週間は授業が終わったら寮室に戻ってじっくりと勉強したよ。

なにせテストが近かったからね。恐ろしいことにこの学校じゃあ、落第の科目を3個取ると放学処分(除籍処分)になっちまうんだ。


僕は英語のライティングと物理と化学が苦手でね、ちょうど三科目苦手なものがある。今まででワーストだったのはライティングと化学を同時に落第してしまったことだね。まあ、三科目落第した時点で放学だから、かなり危なかったんだよ。でも、その時は母さんにこっぴどく叱られたね。成績の通知がテスト結果が出てから、二、三日のうちに実家に郵送されるんだ。全く、どうでもいいことまで、知らせて、この世は本当に大事なことは伝えないんだ。わかるだろう?僕が何を言っているのか。

テレビ一つをとって見ても、くだらないニュースなんか放送して、本当に必要性のあることはちっとも報道しようとはしないんだよ。

テスト週間の学校の雰囲気はいつも以上にクソッタレだよ。元からクソッタレな雰囲気のクラスがそれ以上にクソッタレになるんだから、この世の地獄だよ。

定番の「俺全然勉強してない」っていう定型文を言ってる奴に限って、目元にクマを作ってんだね、勉強してないなら昨夜はおたのしみだったのかとツッコミたくなったよ。でも本当にお楽しみだったのかもしれない。なにせそいつの顔は助平が学生服を着て歩いているようなものだったからね。そいつはマックスっていうあだ名なんだけど、なんだか中二病をこじらせたような奴でね、学食近くの自販機で買ってきたブラックコーヒーを毎朝教室で飲んでるんだ。そして味なんか分からないくせに、コーヒーはどこの国の豆が良いだの、俺は美味しいコーヒーを飲ませる喫茶店を知ってるから可愛い彼女ができたら連れて言ってやるんだとか、ぬかしやがんだな。彼女ができるより早くその喫茶店とやらは閉店している可能性に一億ドル賭けても良いよ。


テストは無事終わった。

でも、今回のテストはやばかったね。なにせ前日に山を張ったところをことごとく外してくるんだからな。先生たち。僕は一体どこで運を使ったんだろうかと、直近一ヶ月遡ったけど、一つしかか思い浮かばなかったな。それは、京子ちゃんと京子ちゃんのお姉ちゃんに会ったことだ。しかし、京子ちゃんのお姉ちゃんも綺麗だったな。危うく好きになりかけそうだった。来世は京子ちゃんの家族に生まれ落ちたいと、そんなことをテスト中にも考えてしまったね。

でもなんとか僕は一つの化学の落第だけで済んだんだ。本当にホッとしたぜ。でも、母さんから怒号の電話が来るのは目に見えてるから、それだけが怖いな。


でももっとまずいことは確かに起こってたんだ。

それはある昼下りの寮室でのことだった。

「なあ、俺は放学処分になっちまったよ。」って、ジローが言ったんだ。

いやあ、すごくショッキングな知らせだったよ。思わず僕は声を張り上げたね。

「なんだって!?今回は真面目に勉強していたんじゃないのか?それに、落第した科目は一つもなかったって誇ってたじゃないか。」

でも僕はその時ハッとしたね。いつもならテストの点数をバーゲンセールに駆け込むおばさま方みたいな早さで聞いて来るジローが、秋セメスターの今回に限り点数を聞いてこなかったことを思い出したんだ。

「いや勉強はしていたんだけどさ、どうにも上の空で勉強しちゃってさ、ちっとも内容が頭に入っていなかったんだな。これが。」

「何だい、お前を上の空にさせた考え事というのは?」

「恋の病かな。」

奴さん此の期に及んで格好つけてるから、もう呆れを通り越して笑えてきたね。

「あはははははは」

「じゃあもう二、三日で秋セメスターが終わるけど、お前はそれと同時に列車で故郷へ

帰るってことかい?あはははははは」

「・・・・・・うん。そうだ。」奴さんの顔を見ると泣きそうなんだな。

僕は天井を仰いでふぅーっとため息をついたね。

僕はその時この学校が進学校であると再確認させられたよ。そしてなんだか無性に悲しくなって来ちまってさ。涙がこみ上げてきたんだ。僕はその涙がこぼれないように瞬きもしないで天井の黒いシミを一点に見つめていたね。

ジローとはこの学校に入学してからずっと同じ部屋で過ごしてきたからな。たくさん言い争いもして、ムカつく野郎だけど、そんな“ムカつく野郎“もいないと寂しくなるものだと思った。

それから高二の秋セメスターが終わり、僕は部屋の窓越しにやつが黒いホンダのバンに乗ってこの西武学園を去っていくのを見ていた。



ジローがいなくなったから僕は二人部屋を一人で使うことができた。ラッキーと思ったけど、それはケーキを兄弟に分けないで、独り占めして食べる時のような美味しいけど、胸の塞がる思いがした

補講が終わると僕はよく外出したけどある時母親から手紙が届いたんだ。


「紫雲、元気でやっていますか?お前を西武学校へやってからもう五年が経つでしょうか?あなたが冬と夏に帰省してくるたびに私はあなたの成長を感じています。あんなに小さかったお前が年々立派に育っていって私はなんだかとても大きな安心に包まれます。でもね、お前が家にいないことがほとんどの中で私とお父さんの関係は少しづつ悪くなり始めたんです。だからお前が大学受験を控えたこの時期にこう言うことを言わなければならない私の気持ちも少しは汲み取ってくれると嬉しいです。

結論から言うと、私とお父さんは離婚することになりました。紫雲、なのでこの手紙を読み終えたらあなたが私とお父さんどちらと一緒に生きていきたいか、折り返し連絡下さい。  母より」


僕は勢いよく固定電話をとってダイヤルを押したね。

「杏里か?

「母さんは?」

「お兄ちゃん!久しぶり!お母さんなら今出かけているけれど、どうかしたの?」

「杏里、お前何も聞いていないのかい?」

「なんの話?」

「いや、聞いてないならいいんだ。」

「何よ。あ、もしかして放学にでもなったのかしら?」

「バカを言ってんじゃないよ、じゃあお母さんが帰ってきたら僕に電話を寄越すよう言ってくれないか?」

「いいわ。あと三十分もしたら帰ってくると思うから。」

すると、15分くらい後に僕の方へ電話がかかってきたよ。


「もしもし、母さん?」

「ああ、紫雲、久しぶりね、・・・・・・手紙のことよね?」

「ああ、もちろんそうだ。一体何があったんだ?」

「・・・手紙に書いた通りよ、お父さんと離婚することになったか。でもお父さんとの約束であなたは大学へ何の心配もせずに進学していいから。安心してちょうだい。」

「そんなことどうでもいい。なんで離婚するんだ?」

「・・・今は言えないわ。何もかも片付いたらちゃんと言うから。お母さんとお父さんどっちについて行きたいのかについてはっきりさせておいてちょうだい。」

「なんだよそれ、僕はいいけどさ。杏里はどうするんだよ?まだ小学生だろ?片親なんて可哀想だとは思わないのか?」

「杏里は私が引き取るから、責任を持って私がちゃんと育てるわ。」

「紫雲・・・!」

僕はそれを聞いたらもう何も言えなくなっちまったよ。だって母さんの声震えてんだもんな。そうなっちゃもう何も言えないよ。僕だって。


「わかったよ。とにかく杏里のことだけはちゃんとしてくれよ。」

僕はそう言い残して電話を切った。 


クリスマスの朝、僕は学校を辞めることにした。でもごく普通の辞め方じゃないんだな。ある日ポツンと消えているような辞め方だね。

ちょっと僕はショッピングモールへ買い物に出かけたんだ。杏里へのクリスマスプレゼントを買いにね。何が欲しいか杏里には聞いていないから、僕の独断と偏見でプレゼントを選ぶことにしたんだけど、これには困ったね。買ってあげたいものがとにかくありすぎるんだよ。例えば、良い水色のワンピースがあったんだ、それから音楽プレイヤー、あの子はピアノを弾くからね、クラシックかなんかのCDを一緒に買って、病気が良くなったら弾いてもらおうと思ったんだ。でもやっぱりその二つが一番しっくり来たから僕はワンピースと、音楽プレイヤーを一緒に買って、キチンとクリスマスプレゼント用のラベルに包んでもらった。プレゼントを買うのって中々良いもんだよな。だって、その人が喜んでくれる姿なんか想像すると、胸が弾むからさ、良いやつなんだ、僕って。


プレゼンントも買ってもうそろそろ帰ろうかと思っていると雑踏の中に父親を見つけたんだ。やつは知らん女の人と手を繋いで歩いていた。僕は父親を蹴り飛ばしたね。周りなんか関係ないさ。人がざわざわし始めた。

すると奴さん、女の前で息子に恥をかかされること以上の屈辱なんてなかったんだろうな。

やつは狐につままれたような顔で僕を見た。

「紫雲か・・・」

「杏里はどうするんだ!」

「すまない・・・」

「すまないじゃないだろう!」僕がそう怒鳴ると、

「お母さんがちゃんと面倒を見てくれるはずだ!お前も子供じゃないし、わかってくれよ!」なんか逆ギレし始めたんだな、本当に大人ってイかれてると思ったよ。

「うるせえこのクソオヤジ!」

「お前!これ以上俺を侮辱するようならお前が大学に行く費用出してやらないぞ!」

奴はそう言ったけど、全く見当違いな脅しなんだな!僕は大学に行けないことなんてこれっぽっちも辛くないんだ。大学へ行ってもどうせ真面目に勉強しやしないだろうからさ。僕は奴の見当違いなセリフに思わず吹き出してしまってね、白けた空気になっちまったから僕はそのまま帰ったよ。全く僕はあんなのが僕の父親だなんて認めたくなかった。でもこの世界には嫌だ!と何回喚いても、結局は認めなくてはいけないことってたくさんあるんだ。本当だよ。



僕は駅へ自転車を走らせた。―杏里に会うためだった。

面会時間には到底間に合いそうにもなかった。でも僕はなんだか今とても杏里の顔を直接みたい気になったんだ。僕はタクシーの運転手に聞いていた。

「ねえ、運転手さん、サンタさんって本当にいると思うかい?」

「サンタですか?」運転手は僕の方をルームミラー越しにちらっとみた。まあ、僕ほどの年齢でサンタがいるのか、いないのか聞くような奴は気違いにほぼ間違い無いだろうからね、当然さ。

「サンタですか、いるんじゃないでしょうかね?」

奴さん、朝から働いていたようでもうお疲れなんだな、僕みたいな子供特有の面倒くさい質問には答える気になれないんだよ。でも僕はサンタがいるのかいないのかなんてどうでもよかったんだな。じっとして黙っていると、杏里のことが心配でたまらなくなりそうだから、質問したんだ。

「じゃあサンタはどこから来るんだ?海外から来るのかな。」

「そうですね、海外のどこかにサンタの本部があって、そこから派遣されたサンタが来るんじゃないでしょうか。」

「なるほどね、じゃあサンタは外国人ってことになるな、」

「いや、それは違うでしょう。ソリに乗って来るんですから、外国人だと、領空侵犯の罪で、ピストルやら機関銃なんかで撃ち落とされるかもや知れませんよ。」

「おいおい、いつから日本はそんな物騒な国になったんだ。」

「いえいえ、日本は戦争がないだけでずっと物騒ですよ。」

なんだかタクシーのおじさんは気の利いたことを言うから、つい僕も笑ってしまったよ。

最初は疲れてるから、僕とは真面目に話をしてくれないと思ったけど、意外と質問にきちんと答えてくれたんだな。大人だからって悪者と決めつけるのは良くないことだぜ。本当だよ。

そして、僕は自分が心を許した相手に限って、自分の身の上話をするのが好きだから、つい

「これから妹に会いに行くんだ。クリスマスプレゼントを渡しにね。」

って言ったんだ。

「ほう、それは良いですね。私にも一人、娘がいるんですが、もうお嫁に行ってしまったんだけどね、娘が生まれた時からいつかは家を出て行くんだろうとは思っていましたが、29歳で家を出て行った時は胸がふさがる思いでしたよ。」

「ひとり娘なら一層悲しいねそれは。でも奥さんがいるだろう?」

「そうですね、妻はいるんですが、認知症で、結構大変なんです。」

認知症か、僕は楽しい話をしたかったのに運転手がなんだかすごく辛気臭い話をするもんだから、僕は適当に相槌を打って、そのままぼーっと車窓からクリスマス特有の浮き足立った世相を眺めていた。目的の駅に着き、料金パラメーターが5000円を超えているのがわかった。僕はもう少し手前でタクシーを止めてもらえばよかったと少し後悔したけど、ちゃんと料金を支払って、さっきタクシーに乗る前にケーキ屋で買ったクッキーを一枚おじさんにやったんだ。

「メリークリスマス!」って言ってね。


僕は3番線に停まっていた青森行きの列車の三等車に乗り込んだ。

すると向かいには白髪のおじさんがタバコをふかしていてね。水蜜桃を食べなさいと言ってくれたんだ。嬉しかったよ。僕は桃が好物だったからね。

いただきますと老人に微笑んで、シャクリと音を立てて食べた。

蒸し暑かったから、水蜜桃の水分が乾いた口の中いっぱいに広がってね、うまかったよ。

「美味しいです」

って言ったら老人はそりゃあよかった。まだまだあるから食べなさいと言って、薄茶の革のバッグに窮屈そうに大量に入っている桃を見せてきたんだ。

「どこへ行くんだい?」

「ああ、青森の方へ行きます。」

「そうか、なんでまた青森なんかへ?」

「妹に会いに行くんです。」って僕が言ったら、

「なんで青森にいるんだい?」

「病気だから、、空気の良い場所の病院で療養しているんです。」

「そうですか・・・じゃあこの桃をその子に手土産でもって行きなさい。」老人の

顔は一瞬曇ったが、すぐにニカっと笑って、桃を二つほど僕にもたせたんだな。ありがたいことには違いなかったけどさ、全くなんでこんなにこの老人は桃を持ってるかのかと思ったよ。盗んできたもんじゃないだろうなと一瞬疑っちまったね。僕ってば、すぐ人のことを疑いたがるんだよ、あんまり人のことを疑うのは良くないと思うんだけど、つい、ね。

老人が福島に入ったところの駅で降りるとそれと代わるかのように、若い女の人が僕の前に座った。

恐ろしいほど肌が白い女性でね、大福の皮のような白さだったね。色っぽいんだ。

「ごきげんよう。」

「ああ、どうも。」

するとその女性はポーチから桃を一つ取り出したかと思うと、窓の外へそれを放り始めたんだ。そして次は二つ取り出して二ついっぺんに車窓から放り始めた。僕は気違いでも見てるのかと思ったよ。窓から放り出された桃は重力には逆らえず、あっという間に眼下に消えて行った。さっきの老人といいこの女といい全くなんでこんなに“桃”を持ってるのだろう。桃ってのは決して安い果物じゃないぜ。それなのにこの気前の良さはなんだと思ったぜ。終いには、

「あなたもお一つ如何?」

って言い出すんだよ。何がお一つ如何?だよ。食べたら良いのか、放り投げたら良いのか僕には見当がつかなかった。でもその女にまっすぐな視線を向けられると、答えは後者だと思わさせられたね。

気づいたら僕は桃を一つ雪の降っている暗闇へぶん投げていた。桃は当然闇夜に消えて行った。

そのまま女はブンブン投げて、ポーチに入っていた桃を全て投げ捨てたかと思うと、次に風呂敷を広げ出して、懲りずに桃を外へ放り投げながら言った。

「私は夫に浮気されたんです。」

「それがなんで桃を放り投げることに繋がるんだい?」

「主人は桃農家だったんです、この桃は主人の命そのものと言っても言い過ぎではない

、この桃がなくなればあの男を苦しめられると思ったんです。」

なるほどね。って思ったよ。そりゃあ桃を投げ出したくなるだろうね

「ははぁ、そんな事情があったんですね。僕はてっきり気が狂ってしまったのかと思いましたよ。」

「気が狂った・・・確かにそう言われても致し方ないかもしれません。でもこれは私なりのケジメの付け方なんです。私はこうやって主人との思い出、記憶を一つ残らず決してしまいたいんです。」

でも僕は思ったね。桃に当たるのはただの八つ当たりじゃないのかってね。

すると、その女は秋田県に入ったところの駅で伏し目がちに降りていったよ。

雪が強くなってきた。と思っていると、車掌が出てきてね、降雪のためしばらくの間、この駅で停車することになりますと言った。

「しばらくってどのくらいの間だい?」僕の方へ歩いてきた背の高い車掌に向かって僕は言った。

「はあ、三時間くらいは動かないと思いますね、」と申し訳なさそうに言って、二等車の方へ足を運んで行くのをぼーっと僕は見ていた。なかなか僕みたいな若造にも敬語で喋るなんて良い奴だなと思った。

けれど、雪がプラットホームにどんどん積もっていき、三時間ばかりじゃ雪は止みそうにもないようにも感じた。

暖房のついた車内はとてもポカポカしていて、眠りにつくには持ってこいの気温だった。だから僕はいつのまにか眠気と正気の境の間を振り子みたいに彷徨っていたけど、いつのまにか眠気に負けてしまったね。音が遮断された深い夜の眠りについていた。

――――――――――――――――――――――――

「杏里、どうしてこんなとこにいるんだい?」

反対のボックス席に杏里が成長したような姿、25歳前後だろうか、その姿があった。

「久しぶりね、兄さん。」

でも兄さんっていう呼び方は小さい頃とちっとも変わってやいないんだな。僕は少し嬉しくなって、

「なんだ、まさかお母さんと一緒なのか?」って聞いた。

「ううん、私一人だけだよ。」

「嘘つくんじゃない、病気持ちのお前をお母さんたちが一人で列車になんて乗せるわけないだろう?」

「私はとっくに病気なんか治ったわ、どこも悪いところなんかないの。それより兄さんあなたこそおかしくなっちゃったじゃない。安い給料で働いてはその給料をギャンブルに突っ込んでは失ってしまう生活、恥ずかしくないの?お母さんがいつも私に愚痴を言って来るのよ。どうにかしてくれる?」

「ギャンブルだって?僕はギャンブルなんかやらないぞ。僕はお金なんかに少しも興味はないよ!」

「兄さん、変わってしまったわ。前は底抜けに明るかったし、優しかった。」

「変わってしまったのは、私が結婚して家を出てしまった時からだよね、ごめんね。」

「お前さん結婚したのか?どんな人だ?」

「まあ!記憶障害にでもなってしまったのかしら!作家の人よ、あまり売れていないんだけど、良い小説を書くの、私は好きよ。それによくプレゼントをくれるの、安いものだけどプレゼントって値段じゃないの。どれだけ自分のことを考えて選んでくれたのかが分かるようなプレゼントこそ価値のあるものだと思うわ。」

「作家か、そりゃあ良いね!でもお前小説なんか読んだ試しあったかい?」

「入院してる時に暇でね、よく読むようになったのよ。」

「そうか、全然知らなかったな。」

僕の知らないところで世界は色々変わっていくんだなあと思った。

「・・・杏里、随分寒そうな格好じゃないか。こっちへ来いよ。」僕が着ていた安物のコートを脱いで杏里に着せてやっていると杏里が呟いた。

「お兄ちゃん、私どこへ向かっているんだろう?」

僕は杏里の肩を僕の脇へ抱いてはっきりこう言った。

「ああ?俺たちは永遠へ行くんだ。」

「永遠?」

「え・・・」

「うん。」

「行こう?」

「・・・行かないわ。」

「どうして!」

「何を言ってるんだ。まだお前は中学生だろう?一人でどこか行くには早過ぎる年齢だ。わかるだろう?僕と一緒に来るんだ。」

「だから、私はもう大人なのよ!25歳なの!結婚もしてるし!そろそろ帰らないと!」

「嘘をつくんじゃないよ!お前はまだ中学生だ!このまま僕と一緒に列車に乗り続けていれば良い!そしたら何もかも変わらない永遠の世界に着く!」

すると杏里は困ったような表情を浮かべて車窓を流れていく景色を一瞥して立ち上がった・

なんだか杏里も、とうとうお年頃になったのかと思って、僕も困ったような表情を浮かべ返した。

「杏里どこへ行く?」

杏里はドアを開けると僕のいた車両から出て行ってしまった。

「――――――――――――――――――――――――」

杏里は何か言ったようだったが、後部座席の人の笑い声で僕は聞き取れなかった。

「もう一回言って」と、言ったが杏里と交代するように僕の真向かいに二人の人が腰を下ろした。なんだか見覚えのあるシルエットだった。


「おや、あなたたちはさっきの。」

僕たちの前に現れたのはさっきの桃老人と桃女だったんだ。

「お腹が空いたんじゃないですか?これ、お食べなさい。」

彼らが僕にくれたのはやっぱり桃だった。僕は会釈をしながらその二つの桃を受け取った。

「どうもありがとう。ちょうどお腹が空いていたんです。」

僕がお礼を率直に述べると、(本当になん年ぶりに口から出た素直なお礼だと自分でも思ったよ)老人と女性は柔和に微笑みながらそれぞれのバックから大量に入った桃を僕に見せてきて、二人は一緒に言った。

「まだ、たくさんあるよ。」ってね。なんだかその二人の顔を見ていたら僕はなんだかすごく、本当に安心しちゃってね、肩に乗っかっていた重荷がすぅーっと下りていく感じがしたんだ。それで目を閉じちゃったんだ。


車掌が八戸駅に到着したことを知らせるアナウンスで僕は目覚めた。

目をゆっくりと開けると“隣にいたはず“の杏里はいなかったし、老人と女性もいなかった。「夢か」と呟いたと同時に絵の具が画用紙に滲んでいくみたいな、加速度的な寂寥が胸いっぱいに広がった。そして僕は網棚に乗せたリュックサックを背負うと、八戸駅のプラットホームへ降り立って、積もった雪をザクザク踏み進めながら駅舎をあとにした。

あたりはもうすっかり闇夜に包まれていた。


杏里のいる病室の電気は消えていた。さて、どうやって杏里の病室まで行ってやろうと思った。エントランスからそのまま入って行ったんじゃあ夜勤の看護師さんに見つかって即アウトだからね、それに夜勤でお疲れの看護師さんにこれ以上手間をかけるのは僕の本望でもなかった。

ふとあるアイデアが浮かんだ。杏里の部屋は二階の角部屋なんだけど、ちょうどそこに辿り着けるように雨桶かなんかのパイプが伸びてんだな。僕はよしキタ!って思ったよ。ちょっと耐久力に不安がありそうだったけど、僕の体重は軽いからね、猿のようにそれをつたっていった。登る前は楽勝だと思っていたけど、実際に登りきって下を見下ろすと足がすくんじゃったね。実は高所恐怖症なんだ。僕って。

僕は猿が木につかまっているようにパイプを抱きながら、窓越しに気持ちよさそうに夢を見ていそうな杏里の姿が目に入った。

僕は、杏里を起こそうとコンコンと窓ガラスを叩いた。でも、杏里は寝ているのか、ちっとも起きる気配がないんだな。これには僕もやばいなと思った。でもそれは、杞憂だったんだ。だって窓に鍵はかかってなかったから。僕は足をまず病室の中へ入れ込むと、走り高跳びでバーを超えるみたいな格好で病室に忍び込んだ。

久しぶりに見る杏里は少し痩せたんじゃないかと心配になった。杏里は結構好き嫌いが激しいから、病院食のような野菜中心のものはあまり箸が進まないんだ。

僕は子供が気持ちよさそうに寝ているのをこちらの都合で起こすなんて野暮なことはしないから、しばらく杏里の寝顔を見たらプレゼントを置いて帰ろうと考えていた。

病室には杏里一人だけのようで、地方の病院ということも相まって周りには何もないし、ただでさえ殺風景な病室がより一層殺風景に見えた。


僕の携帯の着信音が鳴ってしまったんだ!僕はその時一生の不覚だと思った。

大急ぎで携帯をマナーモードにしたけれども、それは遅かった。

杏里は体を起こして、寝ぼけた目でこちらを見つめていたからね!

「兄さん・・・?まあ!兄さんなの!」

とても嬉しそうなんだな。何度も言うけど、杏里の感情は演技を介さずそのまま表に出てくるんだ。それは純粋、genuineなものなんだ。

「ああ、そうだ僕だよ。お前の兄さんだ。」

「私、ちょうど今兄さんの夢を見ていたのよ。庭でジョンと一緒に遊んでいた様子を私は体調が悪いから日陰に入って見ている夢。ジョンの栗毛が自然光を受けて金色に煌めいているの。とっても懐かしかったわ。」

ジョンっていうのは昔我が家で飼っていた犬のことなんだ。もう死んじゃったんだけど。

彼の栗毛は寒い時だと毛布の役割もしてくれたんだ。

「おや、本当かい?僕もちょうどさっき杏里の夢を見ていたんだよ。成長した杏里の夢さ。」

「本当?私どうなってた?」

「―うん、とても綺麗になっていたよ。」

「まあ!嬉しいわ!」

「お母さん、来たんだね。離婚の話聞いたかい?」

「ええ、聞いたわ。でも平気よ。私には兄さんがいるもの。」

「ああ、その通りだとも、お前には僕がいる。早く良くなって、またピアノを聞かしておくれよ。」

「ピアノね!」


「そういえば、兄さんは誰かからクリスマスプレゼントもらったの?」

「いや、僕はもらってない。もう子供じゃないからね。」

「―まだ兄さんは子供よ。だって子供の気持ちが分かるんだもの。」

「いいや、それは違うな。僕は子供の気持ちが分かるんじゃなくて、杏里の気持ちが分かるんだよ。」

「それは同じことよ。兄さんはクリスマスプレゼント何か欲しいものなかったの?」

「――――欲しいものか。」

「ええ、そう。」

まだ暫定的には高校生なはずだったんだけど、困ったことに何一つ欲しいものが思い浮かばなくてね、僕は困ったような微笑みを杏里に向けた。すると、テレビ台に数冊の文庫本が置かれていることに気づいて、僕は黙ってしまった。

「兄さん!」杏里が急かした。

「・・・うん、そうだな。」

「―僕は永遠が欲しい。」

京子に急かされ僕はついそう口に出していた。

「永遠?」

「そうだ、僕はこうやって杏里と話しているのが一番楽しいし、それがいつまでも続いて欲しいと思うんだ。」

「―兄さん、私どこにも行きやしないわ。ずっと兄さんと一緒にいるわ。」

「それは永遠じゃないんだ。いつまでも続くものじゃない。お前もいずれ結婚して兄さんから離れていく。そういうものなんだ。現実っていうものは。僕の気持ちも考えないで恐ろしいほどの速さで進んでいく。逆らえやしないんだ。」

「兄さん、あなたは人が言っていることにちっとも耳を傾けようとしないわね!」

京子が怒っているのを久しぶりに見たよ。普段温厚な人が怒るとな、いつもカッカしている人の何倍も怖いんだぜ。びっくりするよ。

「私が今、どこにも行きやしないって言ってるんだから、それでいいじゃない?兄さんは何を怖がっているのよ。」

んだよ。」

「・・・・・・・・」

「じゃあ今を見るんじゃなくて先を見た方が絶対いいわ。

―兄さんは何か将来なりたいものとかないの?」

「―ないな。」

「でも僕は、例えば二つのグループがあって、そのどちらかに隕石が落ちてしまうことを僕が知っていたとする、すると隕石が落ちる方には僕の全ての友人がいて、隕石が落ちない方には僕の嫌いなやつばかりいる。僕はだよ、友人がいる方のグループ、―つまりは隕石が落ちる方のグループに居られるような人間になりたいんだ。―僕は味方がいない、敵ばかりの世界に生きることが怖いんだ。」

「―兄さん、何かあったの?」心配そうに見つめるから僕は一層辛くなったんだ。

京子の表情には嘘がないからね、本当に心配そうなんだ。

「―いいや何もありやしないよ。」

「長居しちゃったね、京子もう寝るんだ。兄さんは行くからね。」

「わあ!流星群」

京子が窓の外をみて、叫んだので僕は思わず窓の外をみた。

すると、空には眩いほどの流星が夜空を駆けていた。

流星は永遠ではない。でも僕がこの流星を見たという事実は、僕の記憶の中に、僕が灰になったとしても、その灰の一掴みの中に凝縮されて骨壺の中に残り続けるのかも知れないと思った。


「京子、これ。」

「兄さん、これは・・・・・・何?」

「クリスマスプレゼントだよ。」

「まあ!嬉しい!」

「開けてごらん。」

僕がそう言うと京子は目をキラキラさせてラッピングをとった。

「まあ!音楽プレイヤーね!それにワンピース!」

「気に入ってくれたかい?そうだCDも入っているだろう?早速聞いてごらんよ。」

京子は頷き、不慣れな様子でプレイヤーにCDを入れた。

すると数秒の機会音の後に、病室に音楽が流れ始めた。



Happy Xmas Kyoko♪ Happy Xmas julian♪(幸せなクリスマスを、京子、ジュリアン)

So this is Christmas And What have you done (クリスマスがやって来たね、今年はどんなことをしたんだい?)

Another year over And a new one just begun(今年ももう終わりだね。新しい年が始まるんだ。)

And so this is Christmas♪(クリスマスがやって来たね。)

I hope you have fun (君が楽しんでるといいな)

The near and the dear(そばにいる人も大切な人も)

The old and the young(お年寄りも若い人もね)


「これはなんていう曲かしら?」

「ジョンレノンのハッピークリスマスっていう曲だよ。ちょうど京子っていう名前が出てくるから僕は好きなんだ。」

「京子、メリークリスマス!」そう言って僕は京子の肩を抱いた。

曲は二番に入っていたが、曲が終わることはないように感じた。


Fin.










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