群生 ~病院に生えし黒い腕~
俺はベッドの上で、目の前の邪魔ものを手で払う。
疲れた顔をしたおっさんが、俺のその動作を横目で見て眉をしかめた。その表情のまま、俺の目の前を通り過ぎると思われた直後「うぉっと!」と病室の出口で小さくコケそうになり、しかし何事もなかったかのようにここから去っていった。
「え、何? 床が滑るのかしらね」
手を動かしながらつぶやいた母親の言葉は、簡単に霧散して消える。これから出ていく病室内では、荷物を整理している音のほうが大きいから尚更だ。
「ち……」
俺は上半身を起こしてスマホをいじっていた。
舌打ちも兼ねているが、それだけではない。「違ぇよ」と言おうとしたのだ。
――床に生えてる黒い手に掴まれたからなんだよ――。
そう言いたかった……が、それは呑み込んだ。
“黒い手”
何を言っているのかわからないだろう。
皆たいていそう反応する。そういう態度を取る、頭のおかしいやつ……と言いたげに見る。目の前にいる母親もそうだ。
母親の目には、俺以外の大勢の目には――、何の問題もないごく普通の病院にしか見えていないだろう。
だが俺の目には、すぐ横にあるサイドテーブルの上に目障りなものを確認できる。
黒いモヤのような形状の一本の腕が、ゆらゆらと生えているのだ。まるで花のように見える手がさらに不気味さを演出していた。
床からも生えている。ちょうど膝を掴めそうな長さだったり、手を掴めそうな長さであったり、三階を突き抜けようと長く伸びていたりと様々だ。ゆらゆらと揺れて気味が悪い。
「あっ――」
カラン。
俺の入院中に使っていたコップが、例の黒いモヤのような手に引っかかって落ちた。
「んもう、また落ちた。乾燥して手が滑るんだわ。何だか空気も悪い気がするし……」
さっきから母親が手を動かしているのは、俺がこれから退院するからだ。
俺が使っていたコップやタオル、ティッシュを片付けようとし、そのことごとくが黒く揺れる手にぶつかって、またはその手に掴まれて床に落ちる。
俺は一度、親切にも「少しあっちを向いて鞄に入れればいいのに……」と忠告したけど、意味が分からないと言って全く聞く耳を持たなかった。
少し向きを変えれば手に当たらないってのに。
「――ちっ。だからこの病院は嫌だって、前から言ってただろ。なんでもっと離れた病院にしなかったんだよ」
この病院は俺の家から近い。だから小さい頃からこの病院を通るたびに、黒い手を見ていた。この病院にだけは入るまいと思っていたのに……、俺が具合悪くて動けないのをいいことに、車に押し込められてここに連れてこられたわけだ。
「…………ちょっと、まさか、また変なこと言うつもりじゃないでしょうね? 前に言った『黒い手』がどうとか、まーたそんなありもしないことを言うつもり?」
母親が急に不機嫌をあらわにした。
俺がもっと小さいときに、母親に信じてほしくて、病院を通るたびに言っていた『黒い手』のことを思い出したようだ。今更なんだよな。
「いいかげんにして! 黒い手だかモヤだか知らないけど、そんな物はこの世にないのっ! 科学でも証明されてるんだからね! いつも言ってるでしょ。そういうこと言うと変な人に見られるよって!」
始まった。
空想話をやめろ、現実的な目で見ろ、非科学的なことを言うな……。おかしな人だと思われる。――ついでに私も変な目で見られる。と、言いたいのかもな。
さっき同室の人が部屋を出たから、今は俺たち二人だけ。だからいつもの音量で母親は騒いだ。
そして、そんな彼女は別に科学者でも、研究者でも、理系が強いわけでも何でもない。ごく普通の一般的な母親だ。それも自分の目で見た物しか絶対に信じない、頭の固いタイプの母親である。
――でも、科学で証明されている、は言い過ぎだろう。この現象が、現代人の科学では追いついていない未知なるものである可能性だって、なきにしもあらずだ。数年後、数十年後に、人の目に捉えにくい事象が発見されることだってあるかもしれない……。
ま、俺には関係ないか。
「そういうの、そろそろ卒業してよ? 気持ち悪いって皆に思われるからね」
「――まじ、ウゼェ」
そのあとは二人とも黙って病室を出る。
看護師が患者の体温を測りに向かい、入院患者が用を済ませに行き、見舞いに家族が訪れる。
――皆にはそう見えている病院内の様子は、俺の目にはこう映っていた。
看護師が、歩くたびに何本もの黒い手に絡まれて重そうに進み、
一人の入院患者は、足から喉元まで伸びてきた手が原因で咳き込み始め、
幼児を連れた親が、子供が泣き止まないのを不思議に思う。……そういえば、指をさす子供に「何かあるの?」とか聞いていた親もいたな。
一階のロビーに下りると、三階とはまた異なった風景を見ることになった。どこもかしこも細く黒い柱が立っている。黒い腕が三階まで到達しているのなら、一階はそれが床から天井まで続いているということだ。
病院の内装は白いから、ゆらゆら揺れて汚いゼブラ模様になっていた。
この中を抜けるときは、よく見て歩かなければならない。モヤにも強い弱いがあって、強いのは突っ切って歩こうとしても、どうにも歩きにくくなるからだ。
人をコケさせたり物を引っかけたりするのは強いやつ、俺が手で払うと少し形が崩れるのが弱いやつだ。
俺がまっすぐ歩かずたまに迂回するように歩くのを見て、母親はまた気味の悪いものを見る目で俺を見た。その途端、彼女はまるで目の前の柱にぶつかったかのように体がはじかれていた。びっくりと驚き、正面を見て不思議な顔をする。
何もないのを確認すると「ま、たまにこういうこともあるわね」なんてほざいて、また黒いモヤに突っ込んでいった。
彼女はその後も進行を妨げられながら駐車場を進み、車に乗り込む。
俺としては、車で家に帰るのはありがたい。
黒いモヤの腕も、走っている車にはまだ影響を及ぼせないようで、特に邪魔されずに走れるからだ。
車で病院を出て、俺は横の窓を――病院全体を見やる。黒く細い柱が、地上から空へ向かってゆらゆら伸びていた。あの上空を、うっかり飛行機が飛んだらどうなるのだろう――なんてどうでもいいことを考えてしまう。
(あそこで寝るときも大変だったな)
入院中は、黒い腕と腕のあいだを縫うように体を横たえていたからだ。
なぜそれを思い出したかというと、やっと病院から出られて安心したからではない。道路わきの花壇が目に映ったからだ。
黒いモヤの腕と腕のあいだに、なんとか元気に咲いている花。それ以外の花――モヤとちょうど重なってしまった花は、どれももう枯れていた。
俺はさらに窓の外を眺める。
――どこを走っても黒い花みたいな手と、モヤの柱ばかりだ。
小さい頃は病院だけにあった手はどんどん伸び、どんどん広がり、町中に広がってしまった。
「さあ、着いた……げほげほ。……病院でうつったかしら」
家に着いて早速、母親は喉元まで伸びる手に首を絞められていた。
それを横目で見る俺は、すっかり汚いしま模様になってしまった家を、見慣れた光景を、ただただ眺めるのだった。
「小説家になろう」様企画『夏のホラー2019』の二本目の作品です。
ホラーは一本書いてやめようと思いましたが、どうにも思いついてしまったので二本目を書いてしまいました。
一本目は、少々騒がしい雰囲気のホラーです。
『病室のカーテンに映る影』
https://ncode.syosetu.com/n2217fq/
☆ちなみに、
『転生した受付嬢のギルド日誌』
https://ncode.syosetu.com/n5425ew/
というファンタジーを連載しています。(ただいま月間ランキングに載っております!)