【暁の舞姫】、ところにより……
「ケヒヒヒヒッ! 斬るぜ! 斬り刻むぜぇ!!」
小男が舌なめずりをしながらレンへと迫る。
見た目通りの身軽そうな体を風属性の身体強化魔法で更に加速させ、独特の動きから手に備えた鉤爪を振り回す。
「…………」
その縦横無尽な斬撃を捌きつつ、レンは違和感を感じていた。
(浅い……)
斬り刻む、と奇声を発する割に小男は踏み込みも斬撃も浅かった。
これでは刃が届いたとしても大した傷を負わせることはできない。
(警戒している……?)
レンの事を知っている者ならば珍しい反応ではない。
だが、小男はその割に動きに迷いがないように見えた。
傍から見れば猛攻を仕掛ける小男とそれを捌くレンという図式。
だが、そこにさしたる意味は生まれない。
(誘ってみましょうか……)
相手の意図が分からない状態で仕掛けるのは危険である。
そう判断したレンが一歩踏み込んだ。
「ふっ!」
手甲を備えた左拳を長めに伸ばす。
自然と隙ができるような拳打で相手を誘う。
反応した小男が深めに踏み込んできた。
レンの拳と小男の鉤爪が交差する。
「……っ!?」
展開した障壁を抜けてくる感覚にレンは拳を止めて、肩を引いた。
伸びた鉤爪から風属性の魔力が放たれ、肩を掠める。
ビリッ、と布を裂く音が響き、メイド服の肩口が裂けた。
レンの綺麗な肩が顕になる。
気にした風もなく、レンが薙ぎ払うような右回し蹴りを小男に放った。
「ケヒッ!」
後ろに飛び下がりながら小男が鉤爪を伸ばす。
翻ったスカートに鉤爪が掛かり、肩口よりも大きな音を立ててスカートが裂けた。
そのまま、お互い距離を取った状態で静止する。
「…………」
「…………」
顕になった肩と右足の感触を確認して、レンは溜め息をついた。
ダメージはない。
一方、小男は顔を愉悦に歪ませて、じっとりとした視線でレンを見ていた。
「あなたは一体何がしたいんですか?」
肩にも足にも、相手を斬りつける意思を感じられなかった。
その事がレンを更に混乱させた。
「ケヒッ! ケヒヒ! 一枚一枚、服を剥ぎ取っていくのよぉ」
舌なめずりをしながら、小男が両手の鉤爪を擦り合せて金属音を響かせる。
「邪魔な物はぜーんぶ剥ぎ取って、その体に赤い爪痕を刻み込んでいくのさ! 女子供はいいぞぉ……肉も柔らかくて裂きがいがある。最後の惨めさは何度見ても堪らねぇ……ケヒッ、ケヒヒヒヒ!」
下卑た笑みを隠そうともしない小男にレンは理解した。
こいつは変態だ、と。
「その中に、もうすぐ【血塗れの悪夢】も加わるんだ……涎が止まんねぇよ……」
「気色悪い……」
レンが突き刺すような冷たい視線で小男を見下ろす。
興奮したようにはぁはぁと荒い息を吐いていた小男はレンの視線に奥歯を噛み締めた。
「そうだ、その眼だ! どいつもこいつも! 人を気色悪いだの何だのと! だから期待に応えてやっただけだろうが!」
一際大きく鉤爪を鳴らして、小男が構える。
「ケヒヒヒヒ! 爪には毒が塗ってある……なーに、威力の弱い麻痺毒さ。刻まれる度、じわじわと自由が効かなくなっていく……強い毒だとじっくり嬲れねぇからな……徐々に自由を奪われて絶望するがいい」
鉤爪を誇示して見せる小男に、レンは深々と嘆息した。
小男はレンの服を裂けた事で気が大きくなっている。
恐らく、レンを相手取っても引けを取らないと思ったのだろう。
でなければペラペラと麻痺毒の事まで話さない。
「ご心配には及びません。貴方の爪が私に届く事は、もうありませんので」
「ケヒヒ、いいぞぉ……もっと強がってみせろぉ……強がれば強がる程、最後を迎えた時の興奮は増していくぅ……」
レンの言葉にも小男は愉悦を崩さず、歪んだ笑みを浮かべて鉤爪を揺らす。
その様子を見ながら、レンは心底呆れていた。
勘違いにも程がある、と。
レンは小男に服を裂かれたのではない。
一瞬の攻防の中で、服だけ裂かせたのだ。
相手の意図が分からなかったが為に。
それも分かってしまえば取るに足らない話であった。
レンにはもう、相手の攻撃をわざと喰らってやる理由はない。
そのレンの動きを小男は理解できなかった。
レンから言わせれば、小男の実力はその程度なのだ。
レンは構えも取らず、小男に向かって歩き出した。
「これから、私の攻撃は全て、貴方のその気に入らない鼻っ柱に叩き込みます」
「なにぃ?」
「その無様に伸び切った鼻をへし折ってやろうというのです」
「鼻鼻言うんじゃねぇ!!」
特徴的な鼻の形を気にしているのか、小男が声を荒らげる。
それでもレンは無防備のまま、悠然と歩いて小男と距離を詰めた。
「あら、そうですか? 私の師匠も特徴的な鼻の形をしておりましたが、とてもチャーミングな方でしたよ? 貴方とは大違いですね」
「くっ……このぉ……クソアマ……」
小男が青筋を立てて、体と鉤爪に強い風属性の魔力を纏う。
「素っ裸にひん剥いて! 斬り刻んで! 晒し者にしてやるぁ!!」
地を蹴った小男は撃ち出された弾丸のように疾走した。
風属性の身体強化魔法を遺憾なく発揮してレンへと迫る。
小男の両手に備わった鉤爪が繰り出される、その瞬間、レンは前方へ踏み込んだ。
「くっ……!」
急な接近により、間合いを外された小男が慌てて鉤爪を振るう。
その軌道を見切って、レンは素早く身を引いた。
「ちっ……!」
攻撃を誘われたと悟った小男が離脱を計る。
その僅かな間を逃さず、レンの拳が小男の鼻を捉えた。
「グボッ!?」
二発三発と出の速い連打が小男の鼻を打ち抜く。
小男が距離を取ろうと慌てて後ろへ飛び退くが、レンはそれを許さなかった。
小男が飛び下がる前に相手の右腕を外側から左手で掴み、引き戻す。
「…………っ!?」
飛ぶ勢いを下半身にだけ残された小男の姿勢が前方へ崩れた。
ガスッ! ガスッ! ガスッ!
前のめりの小男へ防ぐ間を与えず、拳を三つ。
血飛沫が舞う。
「このっ……!」
小男が鉤爪を伸ばし、レンを牽制して逃れようとする。
レンは掴んだ腕を小男の背中の方へ捻り上げた。
鉤爪の届かない位置へ回り込み、後ろから膝の裏を踏みつける。
「グッ……」
膝を折った小男の鼻を目掛けて、肘を曲げたレンの拳が振り子のように襲い掛かる。
「グッ! ブッ! ガハッ!? くそっ! 鼻ばかりやめねぇかっ!!」
自由の効く方の鉤爪で辛うじて拳打を防ごうとする小男を嘲笑うかのように、レンの拳が次々と小男の鼻を叩き潰す。
「ガハッ!」
なんとかレンの拘束を解いた小男がみっともなく転がるように距離を取った。
「カハッ……! ハァハァ……」
血塗れの鼻を押さえて小男が立ち上がる。
鼻で呼吸ができないのか、荒く息を吐いた。
「くそっ……! 奇妙な魔法を使いやがって!」
「魔法……?」
レンが首を傾げる。
構えもせず、悠然と歩きながら、レンは淡々と続けた。
「私はまだ貴方に対して無属性の身体強化以外、使っていませんが?」
「な、なにぃ……」
「私が使ったのは、ただの体術です。大したことはしていません」
呆気にとられる小男を気にした風もなく、レンが距離を詰めていく。
「元々の身軽さと風属性の身体強化魔法の速度で相手を圧倒してきたのでしょうね。ですが、私に言わせれば魔力に頼り過ぎなのですよ」
「うっ……」
ただ歩いて間合いを詰めていくレン。
一見して隙だらけに見えるその姿に気圧されて、小男が後退った。
「時間をかけてもいられません。ウィル様達のお迎えがありますので」
そう言うと、レンの両手が漆黒の炎に覆われた。
揺らめく異質な炎に小男が息を呑む。
「さようなら」
「ヒッ……!」
どこまでも冷たい別れの言葉に小男の声が引きつる。
小男は恐怖を振り払うように全開で風属性の身体強化魔法を纏い、レンに向かって疾走してた。
「ケヒーッ!!」
地を蹴って跳躍し、弾丸のようにレンへと襲い掛かる。
「また、一直線に……」
レンの呟きは小男に届かない。
勢いのまま、鉤爪を振り上げ、レンに迫り――次の瞬間、小男の顔面にレンの拳がめり込んだ。
絶妙に加減された一撃は小男に吹き飛ぶ事を許さず、勢いを相殺された小男を宙に留めた。
レンの拳の、漆黒の炎が勢いを増す。
その炎を目に焼き付けて、小男の顔が恐怖に引きつった。
「はぁあっ!」
「ぐべらっ!?」
一瞬にして八発、黒炎を纏ったレンの拳が小男の顔面を打って焼く。
「ガッ!! アヅッ!? ヒィイイイ!!」
小男が顔を血に染めてのたうち回る。
火傷のせいで、すぐに気を失う事もできない。
ここに至ってようやく小男は理解した。
目の前の相手の実力がどれほど並外れているかを。
スピードに絶対の自信を持っていた小男でもレンの拳速は目視で捉えられなかった。
火力に特化した火属性の魔力で速度に特化した風属性の魔力を速さにおいて上回ってしまったのだ。
(オ、オレは魔道具で風属性の魔力を更に増幅して……それなのに……)
化け物――それが小男の抱いた感想だった。
相手が悪すぎる。
少しでも勝てると思った自分が愚かしい。
小男は恐怖と後悔の念に駆られて這いずりながら逃げようと藻掻いた。
「ん……? 久し振り過ぎて加減を間違えてしまいましたか」
レンは事も何気にそう呟くと、小男の髪を掴んで無理やり引き起こした。
黒炎に包まれた拳を怯える小男の眼前へと持っていく。
「次はありません。貴方がまた不当に人を傷付けるのであれば、この黒炎が地獄の果てまで貴方を追いかけ、焼き尽くします。いいですね?」
「ひっ、ひっ、ひぁぁ……」
淡々と告げるレンに、恐怖の限界を超えた小男が泡を吹いて気を失った。
その様子を確認して、レンは「ふむ……」と一つ頷いた。
「これでよし……」
レンの黒炎は闇属性が突出しているが為に発現した固有スキルでダメージが残留し、傷も治りにくい。
小男の傷は癒えても、しばらくは疼く感覚に悩まされることだろう。
それを克服したとしても、心に刻まれた深い傷痕までは簡単に癒せるものではない。
これで血塗れになる夢を見るのかどうか、レンには分からなかったが。
「さて、と……」
レンが動かなくなった小男の髪から手を離す。
崩れ落ちた小男が地面に顔から突っ込んで鈍い音を立てた。
だが、今のレンにそんな事を気にしている余裕はない。
「早くウィル様達をお迎えにあがらないと」
いくらエリスや精霊達が守っているとはいえ、心配には違いない。
建物の主には申し訳ないが、レンは血塗れの小男を放置する事に決めた。
「待ってて下さいね、ウィル様!」
絶対大人しくしていないであろうウィルの笑顔を思い浮かべながら、レンは屋根伝いに移動を開始した。