幻獣の夜
夜も更け、人々の暮らしの灯が消えた頃、トルキス家の屋根の上で一匹の狼が星の瞬く空を見上げていた。
等間隔に並ぶ街灯に照らし出された毛並みは緑色に輝いている。
「来たか……」
上空の魔素の流れを読んでいた狼――風の一片がその変化にポツリと呟いた。
一際濃い魔素に乗った美しい精霊が姿を現す。
精霊は風の一片を見つけると、音もなくその前に舞い降りた。
《驚いたわ。本当に子供達が騒いでた通り……こんな所に力を持った幻獣がいるなんて》
長い髪を靡かせた女性の精霊が風の一片をしげしげと見つめる。
彼女は大人びた双眸を微かに細めて笑みを浮かべた。
《子供達が言っていた、女性型の風の上位精霊を捜している幻獣って、あなたの事で間違いないかしら?》
「うむ、間違いない」
尋ねてくる精霊に風の一片は頷いて見せた。
彼女の言う子供達とはウィルの元に集った風の精霊達である。
ウィルが倒れて心配していた風の精霊達であったが、大事には至らない事を知ると胸を撫で下ろし、来た時と同じように空へ帰っていった。
風の一片はその際、精霊の子供達にある頼みを伝えた。
それは成熟した女性型の風の上位精霊を捜して連れてきて欲しいという事だった。
顔を見合わせた精霊達は風の一片の提案に二つ返事で引き受けてくれた。
《……昼間の魔法は貴方か、その契約者が放ったモノ?》
髪を掻き上げて問う精霊に風の一片は首を横に振る。
「仮の契約をした契約者の幼子が、精霊達の力を借りて発動したものだ。魔力は貸したが儂ではない」
風の精霊は風の一片の話を聞いて深々と嘆息した。
ここで風狼が待っていた時点で子供達の話が嘘ではない事は分かっていたが、本当に精霊を呼び出した人間の子供がいた事に呆れてしまったのだ。
《……それで? 貴方の用件は何?》
単刀直入に聞いてくる精霊に風の一片はひと呼吸置いてから口を開いた。
「儂と子を成してほしい」
《…………》
黙ったまま、精霊と風の一片が視線を交わす。
人間が聞いたらいきなり何を言い出すんだと呆れるかもしれない。
だが、彼ら――幻獣や精霊にとっては人間達のそれとは少し内容が違う。
幻獣や精霊は自然の魔素を源に存在し、発生する。
つまり、生き物のように交わり育む必要はない。
幻獣は己の魔素により同属や眷属を生み出し、精霊達は互いの魔素を掛け合わせる事で新たな精霊を発生させる事ができるのだ。
自然の現象の一つとして。
しかし、本体が魔刀である風の一片には単独で新たな幻獣を生み出す能力はない。
同属を成そうとすれば、精霊と同じように魔素を掛け合わせるしかなかった。
《ワケを聞いてもいいかしら?》
真剣な眼差しで問いかける精霊に、風の一片は小さくため息をついた。
「……契約者の子らに我が力の一端を授けたい」
精霊の表情が微かに揺れる。
それは目の前の幻獣が契約者の子供達を認めたという事だ。
それぞれに認める判断基準は違うが、幻獣を納得させるだけのモノが子供達にあったのだろう。
「……今日、契約者の子らが危険な目に遭うてな。縛りのある儂はやむなく家にいた童に強大な力を貸し与えた。その童は誰もが持て余す儂の力を仮にとはいえ使いこなして見せたのだ……」
普通は強大な魔力を得ようと、その発揮の仕方が分からなければ力を使いこなす事はできない。
鍛錬を繰り返して、ようやく強大な魔力の使い方を覚えていくのである。
だが、ウィルは単独で精霊魔法を使える程、風の一片の魔力を使いこなしてみせた。
「童以外の契約者の子らも才覚に溢れておる。その内、今回のような危難にまた合う事があるかもしれん。そんな時に、強大で身に余るような力ではなく、己に即した力で危難に立ち向かえるように手を貸してやりたいのだ」
《それで、貴方の子供を?》
黙って耳を傾けていた風の精霊が尋ねると、風の一片は首肯した。
「うむ……生まれたばかりの幻獣であれば、大きな力を持たず、主と共に成長し、いずれ子らの力になれるだろうと思うてな……」
生まれたばかりの幻獣や精霊は、自身が何者であるか確立できない。
成長し、己の有り様を学ぶ中で、魔素の操作と魔法の力を発揮できるようになっていく。
そうして成熟すると大人びた姿になるのだ。
風の一片が語り終えると風の精霊はしばらく黙ったまま考え込んでいた。
当然だ。
彼女はウィル達を認めた訳ではない。
だが、己の力をもって子を成す以上、彼女も無関係ではなくなるのだ。
《最後に聴かせて?》
「ん……?」
風の精霊は迷った末、風の一片に問い掛けた。
《私が断った場合、どうするの?》
「その時は――」
風の一片に迷いは無かった。
「次の精霊が来るまで待つ」
風狼の中で、その想いは決まっているのだ。
「特にウィル……力を貸し与えた童だが、既に精霊達に気に入られておる。遅かれ早かれ、ウィルは精霊との契約を成すだろう」
《貴方以外に認めた者が……》
言いかけて、風の精霊は思い出した。
ここに自分を誘った精霊の子供達を。あの子達もグルなのだ。
「あの精霊の子らには女性型の上位精霊を儂の下に導いてくれれば、いつでも儂の力を辿って屋敷に遊びに来てもよいと約束してある。お主がここへ来た事が精霊の子らがウィルを気に入っている証なのだ」
《なるほど、ね……》
つまり、目の前の風狼の望みが叶うまで、女性型の風の上位精霊が彼の下を訪れる。
人間で言うところの延々とお見合いを続けるようなものだ。
力ある幻獣が恥を忍んで。
風の精霊はそのまま黙考して、やがて深々と嘆息した。
《いいわ……貴方の願い、私が叶えるわ》
「おお……聞いてくれるのか」
《ただ、勘違いしないでほしい。私は貴方の認めた子供達を知らない。認めようもない。だから、私が信じるのは貴方の事よ》
風の精霊の言葉に風の一片は面食らったが、その表情が自信に満ちた笑みに変わる。
「よかろう……我が眼がどれだけ確かか、共に見届けるがいい」
風の一片の発した魔素が球体となって留まっていく。
《ふふっ……大した自信ね》
笑みを溢した風の精霊の前に、同じく球体の魔素が膨らんだ。
《私の名はアウローラ。貴方の名を教えて頂けるかしら? 名も知らぬ殿方と交わるつもりはないわよ?》
まるで人間がするように腕を拡げ、受け入れるような仕草で悪戯っぽい笑みを浮かべる風の精霊に、風の一片は小さく唸って諦めたようなため息をついた。
「儂の名は風の一片。【葉山の杜の風喰らい】と恐れられた風狼にしてこの世に二つとない風の魔刀である」
《貴方が……?》
風の精霊が驚いたように目を見張る。
風の精霊は風に乗って遠く渡り、いろんな話をするのが好きな精霊である。
各地の噂や情報は大好物なのだ。
シローの事も知っているし、歴史に名を残す程有名な魔刀の存在も知っていた。
《千年前、遥か東方の島国をたった一人の人間とひと振りの刀と化した幻獣で滅亡の際まで追い込んだ、魔人の刃……どんな恐ろしい幻獣が憑いているのかと思えば……》
「忘れてくれ。昔の話だ……」
若い頃の暴れっぷりを思い返して恥じたのか、顔を背ける風の一片に精霊が笑みを深める。
近付いた精霊の手が風の一片の毛並みに触れた。
《さあ……》
「うむ……」
導かれるまま、風の一片が頷いて、一人と一匹の魔素が一つに重なった。
次回からウィルが出ます。