使用人達の夜に(後編)
屋敷の奥まった場所から外に続く渡り廊下を進むと、その先に離れがある。
一軒家が二つ並んでおり、そのうちの一つを使用人達の男性陣が住居として使っていた。
その一室にパジャマ姿のアイカが訪れていた。
「お父さん、いる?」
普段は公私をきちんと分けるアイカだが、休んでいる時はちゃんとジョンを父と呼ぶのである。
ジョンの返事を待って、アイカが室内に入った。
「珍しいなぁ、こんな時間に……」
椅子に腰掛けて武具の手入れをしていたジョンが肩越しに振り向いて眉を顰めた。
「アイカ……お前も年頃だし、とやかく言わんが、もう少しなんとかならんか? こっちにはラッツの部屋だってあるんだぞ?」
娘の寝間着姿は男を刺激するには十分だ。
それに今は客人だって招いている。
もう少し警戒心があってもいいんじゃないか、とジョンは思うのだが。
アイカは気にした風もなく、笑みを浮かべた。
「大丈夫よ、お父さん。ラッツさんはマイナと会ってる頃だし」
「それは大丈夫なのか?」
互いの色恋沙汰ではなく、ラッツが一方的にからかわれているという事実をジョンもアイカも知っている。
(ラッツ……不憫な奴……)
ジョンが苦笑いを浮かべて同僚の若者に同情した。
その横をアイカがすり抜けていく。
壁際に置かれたチェストの上――飾られた写真立てを見て、アイカが嬉しそうに目を細めた。
「やっぱり、ね……」
いくつか飾られた写真立ての前に小さなグラスが置いてあり、少量のお酒が注がれている。
同じようにジョンの脇のテーブルにも酒の注がれたグラスがあった。
ジョンは何かあると二つのグラスに酒を注ぎ、片方を写真立ての前に添える。
写真には意志の強そうな瞳の美女が笑顔で写っていた。
その目元がアイカと似ているのは気のせいではない。
「今日はどんな話をしてたのかな? お母さん……」
エカテリーナ・シモン――若くしてこの世を去ったアイカの母である。
父と同じく第一騎士団に在籍し、その後公爵家専属の警護を任務とした騎士だった。
アイカは一緒に置かれていた写真立てを一つ手に取ると、自分用の小さなグラスを用意してジョンの対面に腰掛けた。
父がそのグラスに黙って酒を注ぐ。
フィルファリアでは十五歳で成人とみなされる。
十八歳のアイカも十分酒を嗜める年なのである。
ただ、アイカはあまり酒を飲まなかったが。
「高いヤツだぞ?」
「えへへ」
分からないであろうアイカにジョンが軽く説明してやると、彼女は照れ笑いを浮かべて少し酒を口に含んだ。
意外と喉越しが良く、胃に落ちる感触に吐息をついたアイカが手にした写真に視線を向けた。
その昔、異国から贈られた撮影機で撮られた写真である。
オルフェスの屋敷の庭を背景に、両側にまだ若いジョンとエカテリーナ。
その間に三人の少女がいる。一番年上のセシリア、その次にエリス、一番幼いアイカ。
ジョンとエカテリーナが結婚し、母が任を退くと父が代わりに任務を引き継いだ。
その為、二人はオルフェスの屋敷内に居住を勧められ、そしてそこでアイカは産まれた。
セシリアは当時の王族の中では一番年下で弟妹のような存在がおらず、故に才覚を見出され引き取られた孤児のエリスと、同じ家で産まれたアイカを本当の妹のように可愛がった。
アイカもセシリアとエリスを本当の姉のように慕っていた。
この写真を撮った数年後、まさか母が急逝するなんて誰も思っていなかった。
母は今なお不治の病とされる病気で亡くなったのだ。
「んっ……」
思い出しそうになり、アイカが先程よりも強めに酒を煽る。
「おいおい、ちょっとずつにしとけよ……」
ジョンの心配を余所に、グラスを差し出すアイカ。
しょうがなくジョンが酒を足す。
「エカには形見の剣と盾を継がせたって報告しといたよ」
酒のせいか、火照る顔を手で扇ぐアイカにジョンが伝えた。
アイカはそれを聞いて、また酒を煽ってから写真に向き直った。
「お母さん、お母さんの剣と盾、使わせてもらうね。修行も怠らないから……」
頬を朱に染めて、微笑むアイカ。
「セシリア姉様の子供達をいつでも守れるように頑張るから……お母さんがセシリア姉様を守っていたように、私も……だから、見守っていてね」
写真に向かってお辞儀をするアイカ。
それから覚束ない手で、また酒を手酌し始めた。
(娘、酒、弱えええ……)
アイカの様子を黙って見ていたジョンが胸中で思わず叫ぶ。
たった数杯で出来上がっている。
(これは間違いなくエカの血だな……)
亡き妻も酒に弱かった事を思い出して、ジョンが苦笑する。
暑い暑いと寝間着のボタンを外し、アイカが手酌を始めた。
「明日も仕事だろ? それで最後にしとけ」
「ええ〜?」
酒の瓶を取り上げるジョンにアイカが非難の声を上げる。
「美味しいのにぃ」
「ちょっとずつ呑むからいいんだよ。ほら、また今度、三人で飲もう」
「むぅ……」
アイカが頬を膨らませ、子供っぽい素振りを見せた。
それから、諦めたように残りの酒を飲み干す。
「きっとだからね」
アイカは念を押すと、「おやすみ、お父さん」と部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送ってジョンがため息をつく。
「もう少しアルコールの低いやつ、用意しとくか……」
妻の写真に微笑んで、ジョンがグラスの酒を喉に流し込んだ。
「ふう……」
アイカは廊下に出ると、小さく息をついた。
いけないと思いつつも父に甘えが出てしまった。
アイカがコツンと自分の頭を小突く。
(しっかりしないと……)
明日も仕事が待っている。
何が起きるか分からない、ドキドキする仕事が。
アイカはトルキス家に仕えられた事を本当に幸せに感じていた。
「よし……」
自分に気合を入れて、アイカが部屋へ戻ろうとする。
まだ酔いに足を取られるが、大したことは無い。
何より部屋はすぐ近くだ。
歩き出そうとして、そこでアイカはようやく隣に人が立っているのに気づいた。
「……ラッツさん?」
ピクリとも動かず、ドアノブに手を掛けた状態でこちらを凝視するラッツにアイカが首を傾げた。
ラッツの顔が赤い。
自分と同じように酒でも飲んだのだろうか。
ひょっとして具合が悪い、とか。
「どう――」
近付いて、どうしたのか尋ねようとしたところで、アイカがはたと気が付いた。
自分が父の部屋でどういう行動を取ったのか。
「…………っ!?」
視線を自分のパジャマに落としたアイカの頬が一瞬で朱に染まる。
酒のせいではない。
自分のパジャマの胸元がぱっくり開放されていたからである。
自分で開けたのだ。
お酒を飲んで、暑くなったから。
「ご、ごめんなさいっ!」
慌てて腕で胸元を隠して、アイカは覚束ない足取りでその場から逃げ出した。
アイカが走り去った後、硬直から解けたラッツがゆっくりと崩れ落ちた。
マイナ、ミーシャと来て、アイカでとどめを刺されたのである。
我慢していたが、限界を迎えて膝をついたラッツの鼻から赤い液体がポタポタと垂れ落ちた。
「うちのメイド達の貞操観念はどーなってんだ……」
弱々しく呟きながら、なんとか部屋のドアノブに手を掛け直すラッツ。
(頑張れ、ラッツ……)
娘を心配してこっそり様子を窺っていたジョンは目尻に浮かべた涙をキラリと光らせ、若い同僚に陰ながらエールを送った。




