ウィルベルの書
翌日――
ウィルはボレノの呼びかけにより精霊たちが集まるのを待って精霊の庭に赴くことになった。
「ウィル様、入りますよ?」
いつも通りウィルを起こしに来たレンは一声かけてからウィルの部屋に入った。
いつものウィルはレンが起こしに来るまでぐっすり眠っていることが多い。しかし今日のウィルは既に起床していた。
ベッドの上で体を起こし静かに目を閉じている。返事しなかったのは意識を魔力に集中していたからである。
ウィルはどうやらボレノにきちんと探知魔法を説明できなかったのが悔しかったようで相談して以来いつにも増して探知魔法の確認を入念に行っていた。精霊たちに自分が探知魔法で感じていることをしっかりと伝えられるように、とのことらしい。
自身の感覚を他人に伝えるなど大人でも難しいことでウィルがそこまで悩む必要はない、とレンだけではなく大人たちはみんなそう思うのだが。それでも諦めず魔法にのめり込むウィルの姿は見守るレンたちからしても舌を巻くものであった。
ウィルが行っている没頭する姿勢は自己を成長させるのに大切なことだ。誰に言われたわけでもなく自ら集中するウィルの姿にレンも思わず感じ入ってしまう。一方で没頭するあまり周りに注意がいかなくなる心配もあって。
そこは自分が上手くバランスを取らなければ、とレンも思っていたりする。現に今もすでに起床の時間であってレンが部屋を訪れているのにウィルは気付いているのか気付いていないのか見向きもしない。
レンがウィルに再度声をかけようと近くまで歩み寄るとウィルの膝の上で寝そべっていた風狼のレヴィが身を起こした。よく見れば折り重なるように濡れ狐のコトノハもいる。
コトノハはまだ眠っているようだ。幼い幻獣なので無理もない。おそらくウィルが起きたことでコトノハも目を覚ましたのだろうがまだ眠り足りないようだ。それでも顕現してウィルの足に身をまかせているあたりウィルのことが大好きなのだろう。
一方レヴィの方は集中しているウィルに代わってウィルの周りに気を配っているようだ。レンを見上げて反応を伺っている様子はウィルに呼びかけるかどうかの判断を待っているように見える。こういうところはさすが一片の子供なのだなと思わせた。
レンがレヴィに頷いてみせるとレヴィはウィルの足を優しくつついてウィルを促した。
ウィルがゆっくりと目を開けて目の前のレンを見上げる。
「おはよー、れん」
「おはようございます、ウィル様。探知魔法の説明は上手にできそうですか?」
「たぶんー」
レンの質問にウィルはちょっと頼りない返事を返したが、それでも先日よりかはかなり手応えを感じているようで。その表情は明るいものであった。
ウィルに陰りを感じられずレンが満足げに頷く。
「気配を察する術というものは感覚的なもの……ウィル様の探知魔法もウィル様の感覚を頼りにしているのであれば、その感覚を他人に伝えるのは簡単なことではありません。焦らなくてもいいのですよ?」
「……むずかしーです」
それがレンの言葉の意味なのか、それとも単純に感覚の言語化が難しいのかレンには分からなかったが。
ウィルは腕組みしてうんうんと唸っていた。このままではしばらく動きそうにない。
とはいえレンもいつまでもウィルを悩ませてはおけなかった。
「ウィル様、もう起きて身支度をしなければならない時間です」
「むぅ……」
「精霊様に会いに行かれるのでしょう? 約束に遅れてしまいますよ?」
「はーい」
レンに促されたウィルがベッドから降りようとして、まだ膝の上でまどろんでいるコトノハに気が付いた。寝ぼけているのかもぞもぞと蠢いている。
どうしたものかとウィルが困っていると横から首を伸ばしたレヴィが器用にコトノハの首を咥えてウィルの膝の上から引き揚げた。
そのままレヴィはコトノハと共に魔力の光となってウィルの胸の中へと戻っていた。
見守っていたウィルが満足そうに胸を押さえ、レンも思わず小さな笑みを浮かべる。
「レヴィは面倒見のいいしっかり者ですね」
「そーなのー。ことのははまだちっちゃいからー」
レンの評価にウィルも同意してベッドを降りてくる。
幼いウィルと契約したこともあってかレヴィは普段からウィルを守ろうとする素振りを見せている。そこに幼い幻獣であるコトノハが加わってより一層面倒見の良さが見えるようになった。
生まれたばかりのコトノハはまだ大した力もなく、遊んで寝てを繰り返していて目が離せない。ウィルが気を回せないところはレヴィがしっかり見張っているようでウィルも大助かりなのであった。
レンが目の前に立ったウィルの顔に優しく濡れた手ぬぐいを当てる。
「さぁ、ウィル様……」
「うむぅ……ぷはっ」
ウィルが寝起きの顔を綺麗に拭き取られて呻く。レンの持つ手ぬぐいから解放されるとウィルは一息ついた。
手際よく身だしなみを整えられながらウィルは探知魔法とは別に考えていたことをレンに聞いてみることにした。
「れん、あのねー」
「どうかなされましたか、ウィル様?」
着せる服を用意しながら聞き返すレン。着がえさせている間にウィルが他愛もない質問してくることはよくあることで、レンはそれほど気に留めていなかったのだが。
「うぃる、じがかけるようになりたいんだけどー」
ウィルの言っていることを反芻してレンの動きが止まった。ウィルの着がえを取り落としそうになりながらレンが聞き返す。
「いま、なんと……?」
「だからー、うぃる、じがかけるよーになりたいのー」
レンがウィルの言っていることを正しく理解するのに数秒要した。
字が書けるようになりたい。つまり勉強したい、と。それも自発的に、だ。
教育係のレンがそのことを嬉しく思わないはずがない。ウィルもまったく字が読めないわけではなかったがそれは幼いレベルでのこと。本格的に勉強し始めるのはもう少し先のことだと考えていた。
そんなウィルが勉強したいと言い出したのだ。
喜びに逸る様子を表に出さないように取り繕ったレンがもう一度聞き返す。
「文字を書けるようになりたい、と?」
「そー」
ウィルがこくこくと頷く。どうやら本気で字を書く練習をしたいと思っているようだ。
「それは構いませんが……理由をお伺いしても?」
「えっとねー」
震えそうになる声でレンが理由を尋ねるとウィルは素直に答えてくれた。
ウィルはどうやら魔法について思いついたことや感じたことを書き留めておきたいと考えたらしい。
今までは傍にいたメイドたちが気付く範囲で書き留めていたり、精霊たちが覚えてくれたりした。しかしそれではウィル自身がその時考えたことまで正確に記録できるわけではない。ウィル自身が思い出せないことも多々あって、ウィルはそのことに不満を覚えたのだ。
「むぅ……」
説明しながら唇を尖らせるウィルの頭をレンは優しく撫でた。ウィルの前でなければ小躍りして喜んでいたかもしれない。
「ウィル様のお気持ちは分かりました。本が大好きなウィル様ですから、大丈夫。すぐに字が書けるようになってお考えを書き留められるようになりますよ」
「ほんとー? よかったー」
レンの許しを得てウィルは安心したようだ。自ら勉強したいと言い出したウィルに反対する者などいるはずないのに。
喜ぶウィルがおかしくてレンもとうとう頬を緩めた。
「ウィル様、お着替えしますよ」
「はーい」
明るい調子で返事をして、ウィルはレンの成すまま身支度を整えていくのだった。
シローはカルツと共に白鬼と白面の魔獣の出現を報告するため早朝から城へと赴いていた。
もっとも今現在のフィルファリア王国に突如出現する難敵に対する有効な手段はなく、シローたちが会議に参加するのは次の機会へ持ち越された。
帰りの馬車の中でシローが小さくため息をつく。
「陛下といえど、見張りの強化をすることくらいしか手の打ちようがないだろうな」
「ええ。白鬼たちに対して我々は完全に後手に回っている状況です。弱点は伝えていますし騎士団や実力のある冒険者であれば対処はできるでしょうけれども根本的な対策は難しいですね」
後手に回っている以上ある程度の被害はやむを得ない。対策を講じられたとしても被害を完全になくすことはできないだろう。
「やはりウィル頼みになってしまうのか……」
「……私やシローの狙い通り、ウィル君の探知魔法開発が白鬼対策の一助となれば白鬼や白面の魔獣の被害を減らせるかもしれません」
魔法大好きなウィルが新しい魔法を求めるのはいつものことなのだが。シローはそんなウィルを利用しているようで気が引けている。カルツもシローの心情を理解しているからこそ自身の思惑を隠そうとはしなかった。
「我々には今のところ事前に打てる効果的な策はありません。ですがウィル君が僅かでも取っ掛かりを作ってくれれば……あとは【魔法図書】の二つ名に懸けて、私がなんとかします」
「……わかった」
シローはそれ以上何も言わなかった。カルツもウィルを利用していることを理解している。理解していてカルツ自身の考えでウィルを見守っているのだ。
「シロー、帰ったら精霊の庭に顔を出すのでしょう?」
「ああ……」
「私も同行します。それから……」
精霊の庭への同行を申し出たカルツの提案を聞いたシローが少し驚いたように目を瞬かせて。
「本気か……?」
「ええ。きっと力になってくれるはずです」
自信ありげに頷くカルツ。
カルツが提案するのであれば間違いないだろうとシローも考えて。座席に深くかけ直したシローは一つ頷いてカルツの提案を了承した。
馬車がトルキス邸の前で止まり、降車したシローたちが屋敷へと入る。
「……ん?」
最初に異変に気付いたのはシローであった。
我が家だからこそ感じる些細な異変。出迎えに来た新しいメイドもどこか戸惑っているように見える。危機感や焦りを抱いている様子はないので急を要する事態ではなさそうだが。
自分たちがいない間に何かあったのだろうか。そう考えたシローがメイドに尋ねてみた。
「何かありましたか?」
「そ、それが……」
困惑したメイドが家長であるシローにどう説明したものかと言葉を選んでいると奥からレンが姿を現した。
「シロー、様」
レンがシローに気付いてこちらに歩み寄ってくる。
ウィルが精霊の庭へと赴いているはずなのでレンも付き添っているものだと考えていたシローは少し驚いたがそれ以上に気付くものがあった。
普段から感情をあまり表に出さないレンだが付き合いの長いシローたちにはすぐに分かった。
((レンの機嫌がいい……))
レンは装っているつもりだろうが滅多に見ることができない装いきれていないレンである。
珍しい出来事に驚いたシローだったがとりあえずレンに帰宅の報告をして当たり障りのない質問を続けた。
「ウィルは?」
「ご予定通り、精霊の庭へ……私はひとまず屋敷に戻っただけです」
レンが屋敷にいたのはたまたまであったらしい。レンの機嫌がいいこととは関係がないようだ。
シローは一度戸惑っているメイドを見てから再度レンに視線を向けた。
「屋敷の雰囲気が落ち着かないんだけどなにかあったのか?」
「それは……」
シローの質問に一瞬感情がそのまま出そうになったのか、レンが一つ咳払いをして。
自身を落ち着かせるようにレンが口を開いた。
「今朝、ウィル様自らおっしゃったのです。字の勉強がしたい、と……」
「ああ……」
レンの報告でシローはだいたいのことを理解した。
ウィルが自ら勉強したいと言い出したことはシローたちだけではなくトルキス家に仕える者にとっても大変喜ばしい出来事だ。仕える者の新旧問わず、そうだろう。
問題はトルキス家が他の貴族らしからぬアットホームな職場であるということだ。
仕えている家の子供が勉学に目覚めたからといって喜びを大仰に表現する使用人はあまりいない。奉公する家や自身の実家の品位、雇い主への配慮などを考えれば自然なことである。
間違えても主を出迎えに来たアイカやマイナのように軽やかなステップを刻んだり舞い踊ったりはしないはずだ。
「シロー様!」
「ウィル様が自らお勉強をしたい、と!」
「もう聞いたよ」
我が事のように喜びを表現するアイカとマイナにシローも思わず苦笑いを浮かべてしまった。
彼女たちが喜ぶ姿はシローにも嬉しいものなのだが。さすがに新しく雇ったメイドの前で調子を合わせるわけにもいかなかった。
落ち着かせようとするシローに仰々しい会釈をしたアイカとマイナが姿を見せた時と同じような勢いで仕事へと戻っていく。
取り残されたメイドはそんな二人の姿をぽかんと見送っていた。ちらりとシローを見やるメイドの視線はこれでいいのかと問いかけているようであった。
「まぁ……うちはあまり堅苦しくならないようにやっていくスタンスなんで……徐々に慣れてもらえればと」
取り繕うようなシローの発言にメイドが目を見開く。まさか自分たちの方が慣れることを勧められるとは思いもよらなかったのだろう。
立ち尽くすメイドに気を遣いつつ、シローはカルツとレンを伴ってリビングへ向かった。
「ウィル君が字を書けるようになったら魔法に関するメモをいっぱい残しそうですね」
ウィルが字を覚えることにカルツも興味があるようで。廊下を歩きながら含みのある発言をするカルツにレンが僅かな懸念を示す。
「人の目に触れても大丈夫なものか確認しておいた方がいい、と?」
「走り書きのようなものだけで魔法の知識を得られる人間はそうそういないと思いますが……」
カルツの言う通り、魔法に関する覚え書き程度のもので理解を深めて力を得られる者は多くないだろう。しかしそこは他の人間とは違う視点を持つウィルのメモである。どのようなものを書き記すのか、魔法に詳しいカルツにも予想がつかない。
「ウィル君の場合、メモを集めてみたら魔法書が完成してしまったとか起こらないとも言い切れませんので……それはそれで楽しみですが」
どうやらカルツはウィルが書き記すかもしれない魔法書に興味を持っているようだ。
可能性が全くないとも言い切れず、シローとレンが思わず顔を見合わせる。
「レン、俺も一応気にかけてはおくが……」
「分かりました。私も気にかけておきます」
シローたちはある程度監督が必要であろうと判断した。人に見せても大丈夫なものかどうかの判断はまだウィルには難しいだろう。
ウィルのメモについての意見を交わしながらリビングに辿り着いたシローたちが室内にいたセシリアに帰宅を告げる。
「セシリアさん、スーリエさんとライラさんをお借りしたいのですが」
カルツがセシリアにスーリエたちも精霊の庭へ連れていきたいと伝えるとセシリアは少し驚いたようであったが快く送り出してくれた。
カルツがシローに進言した協力者とはスーリエとライラのことであった。スーリエたちの知識はカルツも認めるところであり、今回ウィルの創る探知魔法においても彼女たち独自の視点が力になるのではと考えていた。
「そういうことであれば喜んで!」
「精霊様たちにご挨拶もしたいですし!」
スーリエとライラも快く引き受けて一緒に精霊の庭へと向かうことになった。
シローたちが精霊の庭へと通じる倉庫へ向かおうとすると今度はロンとミーシャが姿を現した。
珍しい組み合わせにシローが思わず足を止める。
「どうかしたのか?」
「どうしたもこうしたも……爺さんがハッスルしちまってな」
シローが尋ねるとロンはやや呆れ気味に肩を竦めた。ロンの言う爺さんとは執事のトマソンのことだ。
シローが首を傾げるとロンの代わりにミーシャが答えてくれた。
「ウィル様の勉強したい発言がよっぽど嬉しかったみたいで~いつも以上にみなさんを鍛錬してしまったんです~」
「全員、中庭で伸びてるよ」
どうやら感極まったトマソンが加減できずに家臣たちを鍛え上げてしまったらしい。
いつもは子供たちが魔法の練習のために動けなくなった家臣たちの体力を回復させているのだが今日は精霊の庭に出かけていて不在である。そこでセシリアにお願いしにきたらしい。
どうやらウィルのやる気は各所に影響を及ぼしているようだ。トマソンは年配だがフィルファリア王国では屈指の実力を誇る。そんなトマソンの本気の訓練にトルキス家の家臣たちはまだついて行けないのであった。
家臣たちには災難と思ってもらうしかない。
「午後からは俺が鍛錬を頼まれていたんだが……」
「……今日くらいは休ませてあげた方がいいかもな」
いくら魔法で体力を回復したとしてもさらにロンの鍛錬が加わるのはさすがに可哀そうすぎる。それに集中力が伴わない訓練はあまり効果的とは言えない。トルキス家もまだ新しい貴族でもあるし、無理することもないだろう。
「しょうがないな……」
予定が変更となりロンは小さく嘆息した。もっとも効果の薄い鍛錬をロンが強いるところは想像できないので最初から休ませようと考えていたのかもしれないが。
「俺も精霊の庭とやらについて行ってもいいか?」
結局やることがなくなったロンはシローたちと共に精霊の庭へ赴くこととなった。




